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佐藤シューちひろ

意識の世界が見えてくると、日常の世界がすっかり変わってしまう。
見えない存在たちとの破天荒なコンタクト。
ブログ・シリーズ「夢の冒険記」「ミヒャエルと一緒に冒険に行く」「ニシキトベ物語」


おながめの森の磐座。くぐり抜けの産道。二つの岩が、ちょうどかがんでくぐり抜けられるような形になっている。ここは、過去のものをすべて後にして全く新しく始められるエネルギーがあるスポット。



ニシキトベの部族は、採鉱の民であったそうだ。


ニシキトベの「ニシキ」は、丹敷と書く。丹とは朱のこと、鳥居に塗る、あの赤い色素だ。これは水銀から作られる。

つまり、丹敷とは、丹の採れる地域こと。丹敷の土地のトベ、それがニシキトベなのだ。


磐座を見ればわかる。これを作った人々は、鉱脈を感じ取る感性を持っていたはずだ。


磐座の石は、水脈あるいは鉱脈が地下から発する波動にぴたりと合わせて配置されている。そうやって石を配置することによって、磁場の波動を増幅し、巨大な磁場のフィールドを作り上げることを知っていた人々。彼らは、鉱脈を感知する知覚を持っていたはずだ。


水脈や鉱脈が発する微細な波動を感じ取ること。これは実は、それほど難しいことではない。

これもまた、テレパシーと同じなのだ。現代の私たちにはあり得ないように思えるけれど、本当は、本来人間が自然に備えている知覚……。


現に、アイヌの人々などは、水脈を感じ取ることができる。どこに井戸を掘れば、飲料水になる水が出てくるのかまでわかるそうだ。こういう人たちは、地面に耳をつけると水の音が聞こえると言うんだそうだけれど。

と言っても、地下を流れる水の音が本当に聞こえるわけではないのだろう。その水流が作り出す波動を感じるのだと思う。それを彼らは水の音がする、と言うのだ。


アボリジニの人たちも、オーストラリアの広大な沙漠をさまよいながら、水源を見つけ出す。彼らは、水に意識を合わせると、水を感じるのだと言うそうだ。そして、そこに筒を突き立てて水を出す。この知覚があればこそ、彼らは沙漠の中でも生きていけるわけだ。


ヨーロッパには、二股になった木の枝を使って水脈や鉱脈を探り出す方法というのがあって、おそらくはケルト起源のものなのだけれど、これをダウジングと言っている。木の枝をよくしなわせて両手に持ち、水脈なら水脈に意識を合わせながら地面の上を歩いていくのだ。すると、身体が水脈の波動を感じ取った時に、枝がピョンと跳ねる。


まるで魔法みたいなのだけれど、実はこれは誰にでもすぐ覚えられる。誰でも無意識的には知覚しているものなのだ。それをただダウジング・ロッドと呼ばれる木の枝で目に見える形に増幅しているだけのこと。



プラスチック製のダウジング・ロッド。元はハシバミの枝で作っていた。



熊野の採鉱の民、磐座の民であるニシキトベの部族。彼らはどこにどんな鉱脈が通っているのかを感じ取る感性を持っていたはずだと思う。


熊野では水銀も出たし、金も出たし、鉄も出た。

まさにそのために、熊野は地下資源を求める人々に狙われることにもなったのだ。神武天皇の東征も、丹や金や鉄が目的だったとも言われている。


地下資源のために土地が狙われるのは、いつの時代でも同じこと……。


そうやって外からやって来る人々にとって、鉱脈を感じ取ることができる原住民は、何としても手に入れたい標的だったことだろう。そこに、さまざまなドラマが繰り広げられたことだろう。


津名道代さんは「清姫は語る」という本の中で、採鉱の民と地下資源を狙う朝廷の抗争について語っている。安珍清姫の話、実は色恋と女の執念の話などではなかったと言うのだ。

安珍は旅の僧、清姫は熊野の若い寡婦。安珍が熊野への旅の途中に清姫のところに宿を借りに来るのだけれど、彼が美男子だというので清姫は一目惚れしてしまい……。それが伝説で伝えられている清姫の話。


清姫は結婚して欲しいと言って、安珍の寝床に入っていって誘惑する。安珍は熊野詣りをする前だからと言って断り、帰りに寄るからと言って、清姫をなだめる。ところが安珍は熊野に詣でた後で、清姫のところに寄らずに素通りしてしまう。それを知った清姫が怒り狂って、大蛇の姿になって安珍を呪い殺した……。


ところが、ここに全く別の真相が隠れている、と津名道代さんは言う。 

安珍は藤原氏のスパイだった、と言うのだ。鉱脈のありかを探り出すために、清姫に近づいた。それと言うのも、清姫は採鉱の部族の姫で、鉱山を記した地図を持っていたからだ。

ところでその頃、清姫は部族の力になってくれる人を必要としていた。安珍はそこにつけ込んで、清姫にあれこれといいことを言い、結婚の約束をしていた。

ところが、数日後に戻ってくると言って出て行った安珍が戻ってこない。その時、清姫は裏切られたことに気づく。安珍は鉱山の地図を持って逃げたのだ。これが朝廷に渡ったら、部族は滅びる。それで清姫は必死で追いかけていき、ついには殺してしまうしかなかった……。


それが女の執念のせいで、という話に置き換えられてしまったのだ。


真相がどうなのかは、あくまでわからない。

でも、採鉱民の姫たち、縄文系のトベたち、鉱山の秘密を知る女性たちが、色仕掛けで狙われたことも、さぞかし多かったことだろうと思う。美形の男がそのために選ばれて、送り込まれもしたのだろう。そして、女の弱みにつけ込んでペテンにかけ、秘密を探り出そうとしたのだ。


そして、彼女たちが騙されたことに気づいて追いかけてきた時、男に執着して、という話にしてしまった……。


そう言えば、女が男を恨んで追いかける話、日本の神話や伝説にはたくさんある。

イザナギとイザナミの話だってそうだ。イザナミは火の神を産んだ時に黄泉の国へ行ってしまう。そのイザナミを連れ戻そうとして、イザナギが黄泉の国まで会いに行くのだけれど、イザナギはそこで恐ろしい姿になっているイザナミの姿を見てしまう。それでイザナギは恐れて逃げ出す。そのイザナギを捉えようとして、イザナミは黄泉の国の軍を引き連れて追いかける。それは、醜い姿を見られたことを恨んだからだ、ということになっているけれど……。


この話、どうもおかしくはないだろうか?

イザナミが去っていったのを哀しんで、イザナギは何とか連れ戻そうとわざわざ黄泉の国まで行ったというのだ。それほどまでにイザナミを愛おしんでいたイザナギが、いくら醜い姿を見てしまったからといって、どうしてそんなに命からがら逃げ出す必要があったのだろう?

それに、一度黄泉の国へ去ったイザナミが、いくら醜い姿を見られたからと言って、どうして軍まで率いてイザナギを追いかける必要があったのだろう?


神話というもの、額面通りに受け取ることはできない。古事記も日本書紀も、時の権力者が自分たちの正当性をアピールするために編纂させた物語だということを忘れてはならない。物語のつじつまがどうも合わないというようなところには、別な真相が隠されていたりする。


イザナミが帰って行った黄泉の国とは、出雲のことだ。そして、出雲もまた鉄の出る国、女性の首長がいた土地でもある。そこの女性が軍を率いて追いかけてきたと言うのだ。イザナギが見たものは、女の醜い姿などではなかったのだろう。やはり何か部族の存続に関わるようなことであったのに違いない。


縄文時代は、女系の部族が多かったのだ。それが男系の民族に征服されていく過程で、女性が卑しめられていく。そして、女系の部族が抵抗することが、女の執念は恐ろしいというような話にすり替えられていったのだ。