伊勢斎王との禁断の恋、秘めたる恋、知られてはならぬ恋、そして、決して成就してはならぬ恋。

時に、世の中にはそのような苦しい恋路もあるものです。

そんな逸話の舞台となったのが明和町「業平の松」と伝わる史跡。

 

天照大御神のお傍近くでお仕えする祭主という大きな使命を与えられた伊勢斎王。

数年に及ぶ精進潔斎の日々を経て伊勢斎宮に遣わされた彼女たちは、自身の置かれた立場が国家祭祀における最も重儀なものであるという自負のもと、祈りの日々を過ごしました。

とはいえ、斎王は神に最も近い所にて仕えてはいるものの、当然ながら斎王自身が神というわけではなく、彼女たちは人間であり、一人の女性でもありました。

そんな斎王たちの中には、秘めた恋に身を投じたり、スキャンダルに巻き込まれたりという女性もいたわけです。

その一人が第31代伊勢斎王・恬子内親王。

父帝は文徳天皇で、清和天皇の即位と共に伊勢斎宮へ遣わされた方ですが、彼女と当時色好みとして知られた在原業平との一夜の密通が噂され、スキャンダルとなりました。

 

 

在原業平は平城天皇皇子・阿保親王と桓武天皇皇女・伊都内親王との間に「業平王」として生を受け、後に臣籍降下し、在原姓を下賜され、在原業平となりましたが、平城天皇と桓武天皇いずれともの血脈を引く存在で、その高貴な血統は抜きんでたものでありました。

それだけに、政争に巻き込まれる可能性も高く、実際、高官に就く事もなく、不遇な境遇であり、最終官職は従四位上。

貴族としては下級の官職のまま、その生涯を終えていきました。

 

という事で、出世とは無縁の業平でしたが、色恋に関してはとても派手な経歴の持ち主。

彼の起こした最も有名なスキャンダルは、清和天皇のお妃候補であった藤原高子との逃避行、所謂、駆け落ち事件。

事もあろうに、帝のお妃として入内する事になっていた藤原高子と密通し、駆け落ちしてしまうという事件を起こしたのです。

ちなみにこの事件は、逃避行中に藤原家が放った追手に捕まり、高子は実家に連れ戻されてしまい、二人は引き離されてしまうのでした。

 

この大スキャンダルに飽き足らず、次なるスキャンダルが、当時の斎王・恬子内親王との密通でした。

その経緯は、「伊勢物語」の第六十九段「狩の使」に描かれています。

天皇に代わり、鳥を奉献する「狩の使」として伊勢を訪れた業平は、その応接を司った斎王・恬子内親王に一目ぼれしてしまいます。

恬子内親王は神に仕える斎王ですから、当然、男性と通じる事があってはならない立場なのですが、そんなことにはお構いなく、あれやこれやと彼女を口説き落とし、遂に、一夜を共にする事となってしまうのでした。

その一夜の秘められた恋の舞台となったのが、ここ「業平の松」が残る地。

 

 

この逢瀬はほんの一時であり、長い時間を共にすることなく、何事も語ることもなく、その夜のうちに彼女は帰ってしまいました。

翌朝、彼女から

「君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てか醒めてか」

と歌が送られてきます。

この歌に、業平は返歌をします。

「かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 今宵定めよ」

しかし、この恋は当然ながら成就してはならないわけで、二度と二人は逢うことはなく、二人の関係は一夜の逢瀬であえなく終止符が打たれました。

そして、彼女から訣別の意をこめ、再び歌、上の句のみが送られます。

「かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば」

徒歩の人が渡っても濡れることすら無い程の浅い縁であった、という意味の歌であり、恬子内親王の堅い別れの決意が表されています。

恬子内親王は、自らが全うすべき使命に改めて気づかされ、自ら恋心を断ち切り、己の矜持を正したのでしょう。

一方で、未練たらたらの業平は

「また逢坂の関は 越えなむ」と再会を約する歌を返しました。

 

この二人の禁断の恋は、真実なのか、はたまた、伊勢物語の創作なのか。

それは本人たちのみが知るという事なのでしょう。

それもまた、歴史のロマンですね。