ちはら台地区自治会連合会のブログ

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ちはら台は千葉県市原市の北部にある地域です
自治会連合会の広報担当がたまに好きなことをつづってます

盂蘭盆会が終わると、秋の気配が忍び寄って参ります。もうあと1ヶ月で秋分。季節は立秋を過ぎてしましました。子ども達も夏休みの仕上げですね。

 

さてもともと「やはた」と呼ばれていた、のがはちまんとなったのは、大菩薩の神号が正式に宇佐に朝廷より贈られて以降となります。当時は当たり前でしたが、神仏習合の最たるものでございますな。明治になりまして、神仏分離がされ神社とお寺は別物となり、我々はそれが当たり前となっていますが、明治の前は神社もお寺(仏教寺院)も一緒に信仰というか、お詣りの対象になっていました。大きな神社には神宮寺と呼ばれるお寺が必ずあり、天皇家も基本的には仏教徒でありました。明治になって分離されてしまいましたが、,元は一体だったのですね。

 

で、八幡様。経緯としては、もともと宇佐には東大寺大仏建立への協力等の下地があったことと、天平時代の朝廷の仏教政策として、民衆への布教を一義とする路線と、国家鎮護優先路線の対立がありまして。宇佐の当時の宮司が前者の立場に立ち、仏教守護神として八幡宮の立場を位置づけました。結果として、宝亀8年(778年)5月29日に八幡神が出家し、天応元年(781年)に八幡大菩薩の号が正式に国家から送られた訳です。49代光仁天皇崩御の時期でございます。

その実態としては、称徳天皇(46代孝謙帝重祚し48代)が770年に薨去し、その異母妹井上内親王の夫で、光仁天皇(49代、天智天皇の孫)が即位。しかしその直後に井上内親王は皇后を廃位され謎の死を遂げました。

 

その結果、天武帝系の聖武天皇(45代:孝謙の父)の血統が途絶え、天災が頻発したことを長屋王を始めとする天武天皇直系の祟りと考え、仏教に深く帰依していた聖武天皇が没後に八幡神と結合したと当時の朝廷は捉えていたことから、八幡神に大菩薩号を与えて祟りを防ごうとしたというのが通説です。そして、神社の社格でご紹介した、八幡信が唯一の社格一品であること。それは一品というのが、皇族にのみ与えられる階位であるもので、八幡神が唯一の天皇であることからということなのです。

 

時代は下り、平安も後期以降に桓武平氏と清和源氏に代表される、武家の時代になって参ります。平将門、藤原住友による承平天慶の乱では、石清水八幡宮で調伏が祈願され、平定後には国家鎮護神として、崇められることになりますが、将門自体も上野国庁にて、八幡大菩薩により「新皇」の地位を保証されたとの、将門記の記述がございます。

いずれにせよ、朝廷の体系としての天照大神と異なる、武家社会の新たなる神体系として利用されたのが、大菩薩としてほとけと習合した八幡神であり、武家が奉じた理由であったのでしょう。

 

河内源氏の源頼義は河内国壺井に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子義家は石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と称しました。

頼朝も鎌倉幕府開府後に、鶴岡八幡宮を勧請していますし、代々の足利将軍もこちらは石清水八幡宮ですが、厚く帰依しております。

 

明治の廃仏毀釈(神仏分離令)により、僧形八幡は廃却され大菩薩号が明治政府により禁止され、全国の八幡宮は神社へと改組されました。

とは言いながら、戦中は海軍の一式陸攻部隊である、野中五郎さん(2.26事件の首謀者の一人野中四郎さんの弟、昭和20年3月21日桜花を抱いて出撃した迅雷隊隊長。撃墜されて戦死2階級特進で大佐)指揮下では南無八幡大菩薩の大幟(南無妙法蓮華教とも)を掲げたとの伝説もあります。

 

実はわたくしの勤めていた会社の所在地である市原市の住所も市原市八幡海岸通りであり、最寄駅である八幡宿はそのご近所の飯香岡八幡宮(旧県社。石清水八幡宮の市原別宮)に由来致します。

ところで、八幡様にはあちこちに神像が祀られております。元々日本の神様は祭祓に際してお迎えし、祭りが終わるとお帰り戴くというのがセオリーです。ところが大菩薩になりましたので、扶桑略記に記述がありますとおり、託宣により(889年)菩薩としての装束と道具を請われたので、仏具を宇佐と石清水の両八幡宮に奉ることが慣例となりました。この事が進み仏像同様に八幡神像を法体として作ることが始まったわけです。

 

最も古いのが奈良の薬師寺鎮守八幡宮の比丘八幡像と言われていますが、次が東寺八幡宮の神像です。こちらは空海在世中から護法神として崇められていましたが、空海入寂後は秘仏となり、最近その実在が確認されました。空海は遣唐使として乗船し唐に渡る際に、大菩薩御影を書いて頚に掛け、渡海したと記録にあり、筑紫において八幡大菩薩が現れて「我汝に従って渡海し、汝と所伝の法を護る」と託宣があったとされます。(高野見聞秘録集)

 

この神像は両方とも同時代の作といわれ、仲比売命、神功皇后の2像が付属し、いずれも1メートル以上の等身大の極彩色の三神像とのことです。残念ながら実際に拝見したことはございませんが。

この法体八幡像は、大菩薩と言いながら地蔵菩薩と同様に沙門形とか比丘形とか言われる、頭をまるめた僧形となっています。本来の菩薩の姿というのは、垂髪天冠、天衣をまとうものですが、この両者のみが頭を丸め、袈裟をまとい錫杖をもつお姿となっています。

 

野の仏でも紹介しましたが、地蔵菩薩は釈尊入滅後に修行中を弥勒仏までの、56億7千万年後までの衆生を救うためにこの世に現れた。故に比丘姿でありますが、実は地蔵の本願として、衆生がことごとく成仏した後に成仏するというものです。そのためもあり比丘姿でございます。これと同様のお姿というのは、苦しんでいる衆生を済度するという大願を、八幡大菩薩も共有しているとされました。

これは元々の仏教でも、古来からの日本の神様とも異なる、あらたな宗教観となり一般の人々にも受け入れられて参ります。単なる源氏の氏神からの発展による、武家のみならず一般大衆にも浸透していったために、八幡信仰が広がっていった理由とも想像されます。

 

八幡信仰には弓削道鏡事件や、源氏の氏神としての武神としての一面や、新羅を主とした半島との関わりや国東半島に多い秦姓の帰化人、宇佐と男山の関係、本地垂迹など他にもいろいろな研究の方面がございます。ご興味のある方はそういった方面もお調べ戴ければと思います。通り一遍となりましたが、明治以前に実在した(?)唯一の応神天皇が神として祀られた次第をご紹介いたしました。

 

さて、もうひとかた祭神として祀られている天皇がいらっしゃいます。

その方を語る前に、江戸時代初期の天皇である「後

(ご)水尾

(みずのお)天皇」という方がおります。江戸幕府創世記の天皇であり、徳川家から初めて皇后(2代将軍秀忠の娘和子

(まさこ))を召された方で、その子興子内親王が明正天皇(109代)として奈良朝以来の女帝として即位されました。江戸時代には女帝がもうひとかたいらっしゃいます(117代 後桜町天皇)。この方が歴史上最後の女帝となります。今後は解りませんが・・・

 

で、この後水尾天皇ですが、諡名の水尾が地名の水尾とのご縁がないようなのです。

後水尾天皇は長命であり、崩御後にその遺勅として諡号を決めたとされますが、実は水尾天皇は存在しません。諡号の後が付くのは存在した天皇に何らかのご縁があるということです。例えば鳥羽天皇がいらしたから、後鳥羽天皇(上皇)であり、醍醐天皇や嵯峨天皇がおわしたから、後醍醐天皇や後嵯峨天皇がいらっしゃるわけです。

 

水尾天皇は存在しませんが、生前に水尾御門と通称で呼ばれた方がおわします。源氏の祖でおなじみの清和天皇であります。

嵯峨天皇は嵯峨の地を愛し、この地に別荘を持ち、晩年はその地におわしまして、そのご縁で嵯峨天皇とおくりなされました。そして清和天皇は嵯峨の更に奥の水尾に最晩年をお過ごしになり、この地が終焉の地でもございます。水尾は愛宕山の麓で国産ゆずの発祥地としても有名なところで、清和天皇の御陵もこの地にございます。生前に御陵は不要と申されたそうではございますが。

 

そして水尾小学校校庭を横切った檜や杉木立の中に、清和天皇社があるのです。里人に愛された故かとも想像されますが、国家が定めた神社ではなく、里の氏神として祀られておりますので、正式な天皇社としては挙げられないのかもしれませんが、祭神は清和天皇です。

水尾の公式な観光HPには出て参りますが、私が知ったのは敬愛する司馬遼太郎さんの「街道をゆく」26巻の「嵯峨散歩」によります。

 

司馬さんによりますと、清和源氏を標榜する徳川家としては、本当は後清和とでも諡名したかったのではないかとの事。それもまずかろうと清和天皇の通称であった水尾を選んだのではなかろうかと推論しています。

 

史実の清和天皇については若くして(9歳で)即位し、27歳で退位して仏門に入り水尾にて31歳で薨去しています。その子が20人ということと、女御が在原業平との関係で有名な良房の姪藤原高子

(たかいこ)であることが有名ですが、政治的には殆ど在位中の事跡はありません。ただその子孫の清和源氏で非常に有名になっています。この清和天皇の御代辺りが藤原氏(最初の摂政藤原良房)台頭の始まりともされますね。水尾(みずのお)という優雅な地名と小さな氏神さまの神社のお話しでございます。

 

 

参考文献 中野 幡能(なかの はたよし)著 「八幡信仰」1,985年初版 塙新書

     岡田 米夫 著 日本史小百科「神社」 昭和52年初版 平成5年新装初版 

東京堂出版

     日本の神様を知る事典 阿部 正路(國學院教授)監修 日本文芸社

     歴史読本昭和63年6月号「特集 謎の聖域 神々の社」宇佐八幡 後藤重巳

       (別府大教授) 新人物往来社

     天皇と日本史 阿部 正路監修 日本文芸社

     街道をゆく 26 嵯峨散歩、仙台・石巻 司馬遼太郎 朝日文庫

     その他一般日本史書籍