さて勧善懲悪というドラマ仕立てには、当然悪役が必要でございます。そして最終的に悪役は罰を受け、めでたし、めでたしで終わる訳ですな。
この悪役に当たるのが、悪名高い天保の改革を主導し、江戸市民に嫌われた老中水野忠邦とその手先となり江戸市民に最も嫌われた、妖怪こと南町奉行鳥居甲斐守忠輝(通り名 耀蔵 この耀と甲斐守をしゃれて 妖怪)の2名でございます。
簡単にこの二人の履歴を。
まず水野老中。譜代の名門水野家の一族で分家です。元々水野家は家康の生母で於大の方のご実家でございます。因みに大河ドラマ「どうする家康」では松嶋菜々子さんが演じてらした。一族の監物忠元を祖とし、代々監物を名乗り帝鑑の間詰めの譜代大名でございます。下総山川藩主(3万5千石)を皮切りに2代忠善の代に駿河田中(4万5千石)から三河岡崎藩(5万石)となり、6万石に加増され(5代忠之 老中)忠邦の3代前に肥前唐津に国替えになっています。唐津藩というのは長崎の警護役という事もあり、5万石と言いながら実収入は25万石といわれる、裕福な藩ですが、長崎警護という重要な役目柄、幕府内では老中などの要職には就けない立場です。忠邦君これが気に入らない。いろんな風評もありますが多分偉くなりたがる男の子だったのでしょう。
ところで、ゴーフルで有名な風月堂という菓子店がございます。元は江戸時代(宝暦年間)に大坂よりお江戸は京橋鈴木町に下った、初代小倉喜右衛門が「大坂屋」として創業した和菓子店ですが、こちらと忠邦の因縁話も面白い。
この初代喜右衛門は子がなく姪の恂(じゅん)を養女に迎えましたが、この恂さん唐津藩主の屋敷に奉公し側室となり、忠邦を生んだのです。その後恂さんは大坂屋に宿下がりし、夫として迎えたのが大坂屋の2代目喜右衛門でございます。まあ忠邦にとっては形としては義父となりますな。この忠邦の紹介でいくつかの大名屋敷にお出入りがかない、その中で最も重用したのが寛政の改革で有名な松平定信であり、御用菓子商に任命されました。定信隠居後に雅号の一つである風月から「風月堂清白」の5文字の屋号を賜ったのだと。
さて忠邦に話を戻しますが、どうしても幕閣の重要役職に就きたい忠邦君。長崎警護のために昇格できないことを知ると、実封15万3千石の浜松藩への国替えを運動します。まあ実質賄賂を配るわけですが、実入りの裕福な唐津からの国替えには、家老二本松義廉の諫死などの藩士の反対を押し切っての行動でございます。それでもめげず、幕閣の中では評判となり、奏者番からめでたく寺社奉行兼任に、さらに老中の階段である大坂城代、翌文政9年には京都所司代となり侍従越前守。11年には西の丸老中(世子徳川家慶の補佐役)から天保5年にやっと本丸老中となり10年には老中首座となったわけです。
ちょっと詳しすぎなので、妖怪さんは手短に紹介したいのですが、何にせよこの人本当に悪い。いわゆる天保の改革を失敗させた要因は、種々ございますが、細かな点でこの人の悪業によると言われても仕方が無いくらいです。
美濃岩村藩3万石の松平家4男で、幕府の儒者である林家に養子に入った林述斎が父で、林家に養子に入って3年後に四男として生まれています。述斎さんは非常に温和な方だったそうで、金さんの父親景晋との親交も深かったとの記録がございます。
妖怪君、家学である朱子学を収め、25歳で旗本鳥居大学の元に婿養子となり、2500石の家督を継ぎ、28歳で中奥番を皮切りに、天保9年43歳で、目付となります。水野忠邦の目にとまったのは、実は有名な大塩平八郎の乱に大きく関わります。
大塩平八郎の断罪書を早急に作る必要があったものの、世間の人気は大塩にございますし、何よりも陽明学者である平八郎の格調高き檄文に対抗できる、文書を書くものがなく、朱子学の家学を基礎としている当時西の丸目付であった、妖怪君に白羽の矢が立った訳です。これが実は格調高い名文ではなく、幕府内でもひんしゅくを買ったといわれる、罪状書でございます。つまらない息子の嫁との不倫という、ゲスなでっち上げに始まり実に品格のない文書なのですが、老中水野忠邦がいたく気に入ってしまった。でっち上げは当時誣告と言われていましたが、これが最初で次々にやってしまうし、最悪の暗殺までもやってしまう。
有名な蛮社の獄もこの妖怪君の誣告によるものです。渡辺崋山、高野長英といった人々を誣告により陥れたのが蛮社の獄という、世に名高い事件ですな。なんせ自身の林家の家学である儒学の朱子学以外の陽明学や、蘭学という学問が世に広まるのは許せなかった。
最も非道なのが前回も紹介した北町奉行の金さんとともに南町奉行として、将軍の前で裁きを行った名奉行矢部駿河守定謙で、この方老中水野とも随分と対立しています。妖怪が打った手は、矢部さんが勘定奉行時代に遡ります。天保7年の世に言う天保の大飢饉において、当時の南町奉行筒井が命じられて米の買い付けを行い、江戸市中のお救い小屋で施粥を行ったのですが、余分な出費を帳簿上で繕ってしまい、さらに南町奉行所の与力同心が、米商人から賄賂を取ったという不祥事が起こります。勘定奉行時代の矢部さんはこれを知っていながら、さらに南町奉行になっても、これらの与力同心を処分しなかった。これを鳥居耀蔵(当時目付)が嗅ぎつけ、南町奉行所ぐるみで隠蔽していると水野に告げました。かねがね矢部さんを快く思っていない水野老中は絶好の機会と捉え、矢部さんを罷免し後任に鳥居耀蔵を南町奉行に就任させます。実際に評定所で担当したのは北町奉行の遠山の金さんです。当事者である筒井前奉行には「お役御免・差し控え」という軽い措置でしたが、矢部さんはお家断絶の上、桑名藩に永預けという非常に重い処分が下りました。矢部さんこの二ヶ月後(天保13年7月)に死去します。
死因は絶食して憤死と明治になって書物にございますが、実際には桑名藩によりきちんと治療を受けており、どうも胃がんによるもののようです。これで南町奉行鳥居甲斐守が誕生しました。
さて、矢部さんの評定に加担してしまった金さんですが、この後は性根を据えて水野、鳥居と対決することとなり、歌舞伎の存続を始めドラマにも登場する北町奉行遠山左衛門尉の、面目躍如と相成ります。
その前に天保の改革をおさらいしてみましょう。江戸幕府による三つの改革の最後となります。暴れん坊将軍の吉宗が行ったのが、享保の改革でその孫に当たる松平定信による寛政の改革。そして天保の改革でほぼ幕末に水野忠邦が主導しました。子だくさんの11代将軍家斉から、12代家慶に代替わりし、天保の大飢饉とインフレーションによりかなり厳しい時代です。海外ではアヘン戦争により清が英国に屈服した頃です。
施策としてはまず徹底した贅沢の取り締まり(武家は対象外)、寄席の取り潰し、芝居小屋(三座)の移転、株仲間の解散、人返しの法制化による帰農の促進、床店の禁止、上知令による江戸・大坂10里四方の幕府直轄領化といったところでしょうか。これらの施策のうち庶民(特に江戸の)に関わるところにことごとく猛反対したのが、北町奉行時代の金さんでございます。
ところで、名奉行と称せられる金さんですが、一方の役割である裁判官としての裁判記録は実は残っていません。ちょうど金さんの北町奉行就任から南町奉行辞任までの天保11年(1840年)からペリー来航前年の嘉永5年までの刑事判例が関東大震災で焼失してしまった訳です。従って「これにて一件落着」の記録は残っていません。
天保12年5月12日に改革が開始されます。いわゆる市中風俗の取り締まりが強行される訳です。矢部さんから鳥居に南町奉行が代わった時であり、妖怪君はかなり積極的に取り締まりを強行します。改革開始から2ヶ月で、例えば現三越の越後屋本店では売り上げが4割、大丸では23%と急減致します。これに対して金さんが水野に、やってらんないよと意見書を提出します。生活必需品を扱う米屋などの商売以外は、全て不景気となり盛り場が寂れて、そこで生活の糧を得ている最下層の町人。さらに大工に代表される職人も仕事が無くなる訳です。いわば東北の震災直後やコロナによる外出禁止同様のごとき、不景気ですな。
金さんの言いたいのは、身分不相応の奢侈はいけないが、江戸の繁栄を維持することは幕府の仁政(あえてこの言葉を使っている)の趣旨に齟齬を来すということですな。さあ水野老中これを見て激怒します。将軍に対し文書で北町奉行が改革にサボタージュをしていると憤慨し、さらには江戸市中が衰徴を極め寂れきってしまい商売が成り立たなくなり、商人・職人が離散しても頓着しないくらいの厳しい姿勢が必要とのたまう訳です。
とにかく武士と農民が安心して平穏に暮らせれば、町人などは武士と農民が不自由しない程度にいれば良いという、水戸斉昭が水野に出した意見書の通りが目論見だったのでしょうか。これに対して金さんは真っ向から庶民が暮らすには、江戸市中のそこそこの繁栄が必要という。この基本的考え方の対立が、上記の具体的な項目に及んで来るわけです。
まず寄席の撤廃。文化文政時代に江戸の町民文化は最盛期を迎えますが、天保に入り飢饉が続き、市民生活は疲弊していきます。その結果安直な娯楽として寄席が江戸市内に急激に増えます。文化12年に75件が天保12年には233カ所と急増しています。芝居見物に比べ非常に庶民的な娯楽です。当時の寄席は現在のような落語、漫才だけではなく手品、影絵、講談、女浄瑠璃、人形浄瑠璃など多彩であったようです。値段は現在歌舞伎と呼ばれる芝居は、最低でも一両ちょいとが必要なのに対して銭16文程度と、およそ百分の一から百五十分の一でございますので、棒手振りのお兄さんでも入れる。この中で問題となるのは女浄瑠璃。この頃町民の間で娘に浄瑠璃を習わせることが流行し、また寄席の人気では一番。今のアイドルと同様に、入れあげる客も増えてきます。この取り締まりには金さんも結構苦労しています。これに対して水の老中は寄席を全て止めてしまえと、大なたを振りかざします。
最終的には金さんの抵抗により、全廃は免れて15軒まで存続を許され、内容も軍記物や学問に限定されます。
芝居小屋の撤廃については、さすがに金さんだけで無く将軍も金さんの意見に従い反対したので、猿若町に三座ともが移転となってしまいますが、このところ替えにも真っ向から反対して忠邦の激怒を買っています。この辺りは面白い話がてんこ盛りです。反対の理由はこの芝居関係で生計を立てている庶民が困ると言うことで、これは全ての改革施策に共通しています。結局は役者の給金や華美な衣装の取り締まり、果ては地方興行の禁止、芝居ものの猿若町以外の住居禁止。見せしめとして市川團十郎の江戸所払いという苛烈な処置でした。
それぞれの施策に遠山の金さんが反対したという事実が、庶民に漏れ伝わり江戸市民の人気が上がったのでしょう。最終的には鳥居の裏切りにより水野は失脚し、改革は終わり寄席は復活し、上知令は撤回、床店も復活します。残念ながら芝居小屋は元の場所には戻らず、移転先で発達して参ります。
その後鳥居甲斐守は天保5年6月に老中に返り咲いた水野忠邦により、同年9月に南町奉行を罷免され悪事を暴かれて家禄を没収、丸亀藩京極家に永預かりとなります。
がしかし、この方はしぶとい。金さん没後の明治まで生きぬいて、言うとおりに蛮夷を近づけたから幕府は滅びたのだとうそぶいたそうです。
遠山の金さんは北町奉行から大目付となり、鳥居の2代後に南町奉行となり7年奉職後に、病気(軽い卒中が発症)を理由に辞任し隠居、号は帰雲(きうん)。その3年後の安政2年に病没しています。葬儀には南北両奉行所の与力、同心、町年寄などが訪れていたと記録されています。少なくとも良い上司ではあったのでしょう。
最後になりますが、ドラマでは桜吹雪の入れ墨となっていますが、資料として金さんが桜吹雪を背中に背負っていたという確たるものはございません。
ただ、状況として所謂放蕩時代には入れ墨が市井で流行していたこと、証言として明治になって多少の文が残っていることです。曰く森田座の囃子方の吉村金四郎なるものが、けんかをして腕をまくり上げたら、髪を振り乱して巻紙を加えている、女の生首が現れたとか、南町奉行時代に2年ほど一緒に働いた与力見習いの証言とかがございます。とは申しましても、金さん23歳で嫁をもらっており、子供も生まれております。10代の頃に彫ったと言えなくもないですが、なんとも・・・
可能性はあるのでしょうねということで、お開きに致します。
参考文献 東山金四郎の時代 藤田 覚 1994年初版 校倉書房
遠山金四郎 岡崎 寛徳 2008年 講談社新書
江戸の名奉行 丹野 顯 2012年 文春文庫
大江戸おもしろ役人役職読本 歴史読本1991年 1月増刊
図説江戸町奉行所事典 笹間 良彦 2005年 柏書房