おはようございます。

今日はこれから

アーユルヴェーダの講義です。

 

 

昔の日記を見ていたら

去年の今頃は

風邪ばかり引いてたようです。

 

そして

 

このブログの去年の下書きに

こんな記事が残っていたのを発見。

 

 

↓ここからは去年の今頃書いたこと。

 

久しぶりに顔を見せた生徒さん。

オーナーさんと話し込んでいる。

 

   「実家に帰ったけど暇で」

 

という声が聞こえる。

 

その方はヨガを深めるうちに

自分の本当の気持ちに気づき

最近離婚されたのだという。

 

   ヨガを深めるうちに・・・?

 そんなにヨガを深めてたのか!?

 

ヨガの教えは

 

 好き勝手に生きること

 

を推奨してるわけじゃないと思う。

 

自分とは何かを知り

宇宙の一部としての自分を知り

自分と

自分を取り巻くすべての存在の

尊さを知り

 

社会の一員として

周囲と仲良くやっていくことも

ヨガが指し示すところだと思う。

 

もちろん合わない水からは

離れることになるだろうけど、

そこまでに至るには

長いプロセスが必要なはず。

 

というか、そもそもが

その方が参加してる

 

 体ゆるめましょうヨガ、とか

 癒しちゃいますヨガ、とか

 

そういう系のヨガでも

その境地に達するんだろうか・・・

偏見かしら?

 

オーナーさんも

生徒さんも

 

「ヨガってそうなのよねえ」

 

と談笑していて

遠巻きにそれを見ながら

私だけが一人

腑に落ちないのでした。

 

 

この違和感は今も変わらず。

 

ヨガってときどき

都合のいい解釈に

使われちゃってる気がします。

 

実は

この生徒さんのような話は

先生方からよく聞くんです。

ヨガインストラクターの離婚率、意外と高いんです。

 

 

 ヨガを深めていくうちに
 私が本当にやりたいのは
 ヨガなんだってわかっ
たの。

 今は離婚してせいせいして
 毎日をエンジョイしてます。

 

 

 ヨガがやりたいから?

 

 おひとりになって

 好きなことだけをやっていく人生

 選ぶことにしただけでは?

 

 

前に

谷戸先生のFacebookの記事で

ご紹介しましたが

 

ヨガは道具であって

 

 ヨガがしたいのに

 ○○のせいでできない

 

という発想は

もはや

ヨガではなくエゴですよね。

 

ヨガは

日常を豊かにしてくれる

ツールであり

エゴを抹消してくれるもの。


そこを混同して

語られることに

私自身は強く抵抗があります。

 

自分らしく生きるというのは

自我を押し通すことではない。

 

その違いはとても難しいけど、

ヨガの中で私は

自分というのは

表で暮らす自我の部分ではなく

自分の奥底に常に平穏でいる

真我のことを指すと学びました。

 

真我はすでにいつも

自分のまま

あるがまま

完成された状態で存在する。

 

変えたり

付け足したりする足掻きが

必要ない世界です。

 

その真我と出会い

その境地に達することが

 

 ヨガを深める

 

だと私は思っています。

 

そういう過程を経て

発せられた言葉なのかな・・・

 

その微妙な解釈の混同が

ヨガに対する

誤解を生んでいる気がします。

 

たとえば

 

片岡鶴太郎さんを見て

 

 ヨガを深めると

 あんな風になっちゃうんだよね。

 あれはいやだよね。

 

とか。

 

私自身は

鶴太郎さんはすごいと思うし

なるべくしてなった

スタイルなんだろうと思いますが

 

 ヨガを深めると

 世捨て人みたいになっちゃう

 

という印象を

世間に与えた感もあります。

 

ヨガを深めたとしても

全ての人が

世捨て人みたいにならなくていいし

 

それぞれの形で

それぞれに幸福な社会生活を

営んでいくためにヨガはあると思う。

 

 

不要なものを手放していく作業は

自分の内側で起きることであって

家族や社会を切り離すことではない。

 

 

 ヨガを深めて離婚する。

 

 

それもありだとしても

なんだか関係ないことまで

ヨガのせいにしているようで

 

私はどうしても

違和感を感じてしまいます。

 

 

* 

 

 

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