やっと、気持ちも落ち着いてきたので、ここに記録しておこうと思います。
自分の記録用なので、長いです。
これでも足りないぐらいだけど。
そのニュースを知ったのは、友達からのラインだった。
ちえきち、大丈夫?
千代の富士、天国に行っちゃったね・・・
それを読んだ私は えっ!? って思って、あわててネットニュースを開いた。
そこには
元横綱千代の富士 九重親方 死去
トップに、そう出ていた。
友達からのラインが来た時、頭をよぎったのは 膵臓がん。
千代の富士は、膵臓がんだった。
それは 知っていたけど・・・大丈夫だと思っていた。
根拠はないけど、千代の富士は大丈夫、と。
千代の富士が 死んじゃった
そう旦那に伝えた途端、涙がブワッと出てきた。
多分、頭の中では まだ理解できてはいなかったと思う。
でも、がんだったことは理解してたので、死は 有り得ないことじゃない、と とっさに結び付いたんだと思う。
同じ部屋には かい坊がいて、この先 自分は冷静じゃいられなくなると思い、部屋を飛び出して 寝室に閉じこもった。
最初は、何も考えられず ひたすら泣いた。
あんなに 声をあげて泣いたのは いつ以来だったろう。
千代の富士 死去 という言葉に対して 泣いた。
ふと、考える。
千代の富士が・・・死んだの?
千代の富士が?
泣いてはいるけど、千代の富士の死というものは 全然理解できてなかったと思う。
とにかく、長い長い時間、頭がおかしくなるぐらい、泣いていた。
途中、旦那が来てくれたけど、それすら ありがたいと思えなかった。
何も考えられなかった。
私は 小さい頃、おばあちゃん子だった。
いつも おばあちゃんの側にいた。
だから、物心ついた時には 夕方になると 相撲中継を見ていたし、おばあちゃんが好きな力士を マネして応援していた。
おばあちゃんが好きだったのは、高砂部屋、春日野部屋、佐渡ヶ嶽部屋、九重部屋。
当時の力士で言うと、高見山、富士桜、朝汐、栃赤城、琴風、千代の富士。
他にもいたかもしれないけど、記憶に残っているのは この力士たち。
当時、相撲が 一ヶ月おきであることも、一場所が15日であることも理解出来ないぐらい小さかった私は、夕方は毎日相撲をやっているものだと思ってた。
おばあちゃんに『今はやってないよ』と言われるとガッカリ。
そして、また 場所が始まると おばあちゃんと一緒に 相撲中継を観ていた。
そして、当然のごとく 千代の富士と結婚する!と思ってた。
そんな中での、あの ウルフフィーバー。
あの 千代の富士 初優勝の一番の時は、今でも 記憶に残ってる。
本割で 北の海に敗れて、おばあちゃんと一緒に ガッカリして。
決定戦で 上手出し投げで勝ったんだけど、私には 一瞬 どっちが勝ったのか分からず(千代の富士も手をついてたから)、おばあちゃんが喜んでるのを見て 私も喜んだ。
初優勝後、故郷に帰って 自宅の前で 雪の降る中 お父さんと握手している姿、今でもよーく覚えてる。
ものすごく印象的だったんだろうな。
大きくなるにつれて、それまでのように相撲に熱中することは 少なくなったけど、千代の富士の結果だけは ちゃんと確認していた。
中学になると、千代の富士の取組を 毎日ビデオに録画した。
部活から帰って、ドキドキしながら録画していた取組を観る。
勝つとホッとし、負けると 悔しくて悲しくて 泣いていた。
そんな私を見てた お父さんとお母さんは、負けた時は 私に言葉をかけられなかった、と 後日言ってた。
この頃は、小さい時とは違う感情で 千代の富士を応援していた。
国技館にも 何度も足を運んだ。
知り合いに 相撲が好きな人がいなかったので、相撲雑誌の文通コーナーで 相撲好きな人と文通をし(当時は 雑誌に住所をまるまる載せてたことを考えると、平和な世の中だったよね)、当時 私より10歳ぐらい上の 都内に住むお姉さんが チケットをとってくれて、国技館で待ち合わせをして 一緒に観戦した。
2階席の安いチケットを取り、放送席前で立って観るのが 恒例だった。
初めて 本物の千代の富士を見た時は、感動して泣いたなぁ・・・。
優勝した時は、優勝パレードだけを観に行ったり。
高校の時は、隣の市に相撲巡業が来るというので、当時 皆勤賞だったにも関わらず 学校を休んで 巡業に行った。
その時、土俵入りが終わった後の千代の富士の体に 初めて触った。
左の肩のあたり。
土俵入りから戻ってくる千代の富士が 歩いてくるのを ドキドキしながら待っていて、触っていいものか 最後まで迷ったけど(神様のような存在だったので)、もうこんなチャンスはないかもしれない!と思って、勇気を出して 触れた。
今思うと、あの時 勇気を出して 良かった。
そして、とうとう その日が来た。
忘れもしない、5月14日。
お風呂に入ってる時、居間のテレビの音が聞こえてきた。
さきほど、千代の富士引退のニュースをお伝えしましたが・・・
この言葉で、理解した。
この場所、初日に貴花田に負けた千代の富士、2日目は勝ったけど、この日は 貴闘力に負けて 1勝2敗。
でも、きっと大丈夫・・・と言い聞かせていた所だったけど・・・理解した。
その場で涙があふれ、お風呂から出たら 部屋に逃げ込んで 泣いたなぁ・・・。
あの時も、今回と同じように 泣いて泣いて 泣きまくった。
この時は この時で、本当に悲しかった。
ずっと 応援していた千代の富士の相撲が もう 明日から観られない。
突然すぎる。
でも・・・
毎日 負けるんじゃないか、と ハラハラドキドキ 心臓に悪かった日々を もう送らなくていいんだ、という 安堵感があったのも 確か。
これからは 平穏な気持ちで 相撲を観られるんだ・・・。
翌年行われた、千代の富士の断髪式。
後援会に入っていたり、ツテがないと行けないと言われていた この断髪式に、なんと 行けることになった。
当時文通していた 大阪の子が、チケットを2枚入手できたから 一緒にどうか、と連絡してくれた。
国技館で、千代の富士の大銀杏が 切り落とされる瞬間を この目で見た。
涙が止まらなかったけど・・・この場にいられることを ありがたく思った。
ここで、本当に 横綱・千代の富士と サヨナラだった。
陣幕親方になった千代の富士は、その後 九重親方になって 部屋を継承する。
一代年寄 『千代の富士』 を辞退して 九重部屋を継ぐ、という考えは、千代の富士らしいなぁ・・・と思った。
本音を言うと、千代の富士親方、千代の富士部屋 を見たかった、という気持ちもあったけど。
千代の富士が引退してからは、私は 相撲は 結果を見る位になった。
若貴フィーバーも 全く興味はなかった。
ただ、時々 バラエティ番組に出る 千代の富士は チェックし、録画して観るのが楽しみだった。
千代の富士には、あまり良くない噂もあった。
そのことについて 悩んだこともあったけど・・・
最終的に、私が 千代の富士を好きなことには変わりない、ということを 再認識した。
去年は 還暦土俵入り。
もう 千代の富士も 60歳なんだぁ・・・と 感慨無量だった。
あれから まだ一年なのに・・・。
訃報を知ったのは、日曜日の夜。
こんなんじゃ 明日 仕事に行けるだろうか・・・と考えた。
こんなこと(ではないけど)で 仕事を休むなんて・・・とも考えるし、でも 私にとっては 大きすぎる出来事だから・・・とも考える。
本当は休みたい。
仕事なんて やってられる状況じゃない。
でも・・・。
翌日は、目が腫れていた。
でも、これ位なら大丈夫。仕事に行こう。
でも・・・
朝のテレビで 千代の富士のニュースが流れると、見ないようにしていても 涙が止まらない。
ゆき坊に『大丈夫?』と心配される始末。
必死で 目を乾かして、家を出る時間に 鏡を見て 『大丈夫!』と自分に言い聞かせる。
仕事をしている間は、忘れていられた。
でも、ふとした時、思う。
あれ?千代の富士って 引退したんだっけ?
だからこんなに悲しいんだっけ?
で、すぐ理解する。
あぁ、引退したんじゃなくて、死んでしまったんだ、と。
あの時と同じように悲しいけど、あの時以上に 辛いことなんだ、と。
千代の富士が引退した時は、本当に 悲しかった。
でも、千代の富士は そこにいた。生きていた。
横綱としての千代の富士は もう見ることは出来ないけど、それは悲しいことだけど、でも 千代の富士本人は 生きていてくれた。
今思うと、それだけで 幸せだったんだ。
いなくなってしまうなんて。
もう、見られないなんて。
『千代の富士 死去』という活字が 理解できない。
そこから 考え込む。
えーと・・・千代の富士というのは、あの千代の富士。死去というのは、死んでしまったこと。
千代の富士は 死んでしまった・・・ということ。
一つ一つ 頭の中で 噛みしめていかないと この言葉が 飲み込めない。
少し考え込んで、理解できたということにして、次の作業に進む・・・という感じだった。
あの時は、ちょっと 頭が うまく動いてなかったかも。
ショックなことが起きると、こんなふうになるんだなぁ。
お父さんの時も、こうだったっけ?
もう 18年も前のこと。細かい心情は覚えてないけど、きっと こんな感じだったんだろうな。
比べられないことだけど・・・。
そんな、ちょっと頭が回らない数日間を過ごした。
そんな中、私には どうしても やりたいことがあった。
九重部屋に行って、献花をする
10月1日に お別れ会を開催すると聞いたけど、それじゃなくて。
まだ 千代の富士の体が そこにあるうちに、行きたい。
今までの たくさんの感謝を、近くに行って 伝えたい。
それは、その週の木曜日に 叶った。
その日は 子供達と 渋谷に行く用事があった。
本当は 金曜日に一人で行こうと思ったんだけど、ゆき坊に聞いてみると『いいよ』と即答してくれた。
渋谷で用事を済ませた後、ゆき坊とかい坊も 九重部屋に 付き合ってくれた。
暑い中、たくさん歩いて。
途中でお花やさんに寄って お花を買って。
ゆき坊のスマホでの地図を頼りに 九重部屋に向かう。
近付くにつれて、私の心臓は ドキドキして・・・
とうとう、献花台が見えた時には、もう ダメだった。
ああ。
本当だったんだ。
本当に 死んでしまったんだ。
あれは あの 千代の富士の献花台なんだ。
理解してたつもりだった。
だけど、実際に この目で見るまでは 心のどこかで 信じていなかったのかもしれない。
買ったお花を献花台に置き、記帳する。
そして、あらためて 九重部屋を見て、上階を見上げる。
この建物の中で、千代の富士が 眠ってるんだ・・・。
涙が止まらない私の背中を、ゆき坊がさすってくれた。
人前で 声をあげてなくなんて・・・ね。
本当にごめん。すぐ泣き止むから。
もうちょっとだけ・・・。
千代の富士、ありがとう。
本当に 本当に 大好きでした。
ううん、大好きという言葉では 片付けられない。
もっと 違う、大きな大きな存在。
私の一部だったのかも。
だって、物心ついた頃から 自分の中に 確かな存在として いたんだから・・・。
後日発売された、千代の富士 追悼号 をパラッと見た時、ある写真を目にした。
2人の 男の人が写ってる写真。
あれ? どっちも千代の富士じゃないな。
どっちも、千代の富士と親しい人達かな?
パッと見、そう思った。
その写真のコメントを読んでみると、今年の6月、何かのパーティーで 天龍源一郎さんと撮った写真らしかった。
・・・え?
もしかして・・・?
そう思って、もう一度 その写真を見る。
そこに写っていた2人のうちの1人は、千代の富士だった。
私の中にあった 千代の富士とは、全く違う人になっていた。
ビックリして、ショックで、それから その本は まだ見られていない。
やはり・・・そうだよね。
がんだもの。
闘病してたんだもの。
痩せるのは 当たり前だよね。
亡くなる 一ヶ月半前。
そうだよね・・・。
九重部屋に献花に行ったこと、この写真を見たことで、私の中で 千代の富士の死というものが リアルになった。
最初の頃と比べたら 随分落ち着いたし、千代の富士の死というものを 受け入れられていると思う。
オリンピックに沸いている、今。
私も 応援してるけど・・・
千代の富士の 告別式、もう少し テレビで流して欲しかったな・・・
というのが 本音。
そして、ここにきて SMAP解散というニュースが入ってきた。
SMAPファンではないけど、ビックリ。
ファンの心境は 計り知れないけど・・・
ふと、思った。
千代の富士が引退した時の、あの時の私の気持ちと 少しだけ似てるのかな、と。
SMAPファンの人からしたら 『全然違う』 と言われるかもしれないけど。
もう二度と 見られなくなる・・・という 悲しさ。
でもね。
生きてくれてる。
あの時の私には 分からなかったけど、引退が ものすごく辛く悲しかったけど、今になると思える。
生きていてくれるだけで 幸せなんだ、と。
生きていてくれれば、この先 違う形になっちゃうけど、また 会える。
その幸せは、多分 後にならないと分からないと思う。
あの時の私みたいに。
生きていてくれるだけで幸せ。
そして、今の私は、千代の富士と同じ時代に生きられたことを 幸せに思わなくちゃ、ね。
まだ、訃報を録画した番組は 一つも見れないけど・・・
翌日にコンビニで買った新聞は 一つも読めないけど・・・
本当に 千代の富士の死を 自分の中で 消化できてるのかは 分からないけど・・・
今は 落ち着いて 毎日を過ごせてる。
お父さんが亡くなった時、もう二度と立ち直れないんじゃないかと思った。
こんなに辛いこと、乗り越えられるわけがない、と。
それでも、今は 普通に生活出来ている。
時間って、本当にありがたいものだと思う。
ありがとう、千代の富士。
さようならは、言いません。
だって、この先も ずっとずっと 今までと変わらず 私の中にいるんだから。
子供の頃買った、相撲の本。
右は 昭和55年度版だって。
懐かしい顔がいっぱい載ってます。