ミクロ経済学の無力「モデルと当事者の意識」 | 秋山のブログ

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「ミクロ経済学の力」から。

 

生産理論に関して、実務家に評判が悪いということについてコメントがある。これはミクロ経済学に対する定番の批判でもあり、以前も取り上げた話でもある。

 

経営者は、需要予測によって生産をおこなっている。従ってこの書籍にある『長年のカンと経験によって』『生産関数のグラフが等利潤線に接している点を選んでいる』という主張は全く的外れだ。

筆者は、上手く限界生産性が逓減するようにそれぞれ少量しか作れない旧型から新型の数種の機械がある工場を想定した(畑に喩えるより余程よい)。しかし現実にそのような形の工場はほとんどないのである。工場を作る際は、その時予測される需要より単独で多く生産できる機械を入れるだろう。非常に低い確率だが運良くそれが最大限動いても追いつかないような事態がおこれば追加の機械を入れることもあろうが、多くの場合は取り壊されていて旧型で生産することはまずないだろう。

経営者は、需要を予測し、それを賄うのに十分な設備を作り、その範囲内で生産する。そして設備のキャパシティを超えた時点で生産を打ち切る。すなわち生産関数は、逓減などではなく、従業員のスキルの問題で逓増で、ある点でそれ以上の生産がなくなるというのが通常の形であろう。そしてこの経営者のやり方こそが、利潤を最大化しようとするものであり、実際経営戦略として大凡適切なものだ。

 

経営者の意図はアンケートなどでも確認されている。もちろんアンケートという手法にいろいろな問題があるのは確かであるので、実際の生産量等を見て確認するのも重要である。しかし逓増を主張する経済学者は、実際のデータで証明するわけでもなく、アンケートより実際のデータをみることの重要性を説くことで、理論の正当性を訴えた。現実のデータもアンケートに符合するにも関わらずである。

 

経営者に対するアンケートが、主流派経済学の数式で表現された理論と全く異なるという話は、過去に大きな議論になったらしい。この論争に決着をつけたのはフリードマンで、ビリヤードを例に出して、プレイヤーが意識していなくてもあたかもその数式を理解してその通りにおこなっているようになると主張した。データを示さずに喩え話で決着がついてしまったことには驚きを禁じ得ないが、この本においても筆者が同じような主張をしているのである。ここで出しているのは、猿が二足歩行をする時に、ロボットの二足歩行の制御式を解しているように振る舞うという話だ。

 

現実離れしたモデルがそれでも役に立つためには、最低限それなりの精度で結果が一致しなくてはいけない。本来は、結果は一致した上で途中の経過や構造も一致する必要もあるだろう。構造や経過が現実的でないことを「あたかも」その理論に沿ったようになっていて、「大雑把」(大抵話にならない精度である)には結果が一致していて有用なんて主張することは、ナンセンス以外の何ものでもないだろう。