「リカード貿易問題の最終解決」から。
本書は、経済学がどこで間違えたのか理解をうながすために、経済学の歴史的経緯に関しても詳細な記述がある。この本で学んだケインズとマルクスに関する記述をもとに考察して見よう。
まずはケインズ。
現在主流派の経済学に疑問を持っている人間の多くが共感している経済学者がケインズである。クルーグマンやスティグリッツ教授はニューケインジアンであるし、本書で重要な経済学者のスラッファは、ケインズサーカスの一員だったそうだ。
引用する。
P28『ケインズは,非自発的失業を解消・縮小するという政策課題を発見し,有効需要という重要な概念を定義したが,その理論は矛盾にみちたものだった.1960年代には自由経済諸国を制覇した観のあったケインズ経済学が,1970年代以降,40年の長きにわたって凋落してきたのは理由のないことではない.』
P316『1960年代以来,ケインズ経済学のミクロ的基礎づけが有力な研究課題(research program)として浮上した.その運動の初期の担い手たちの善意は疑わないが,ケインズの構想をマーシャルであれ,ワルラスであれ,新古典派の枠組みにおいて理論化しようとしたことじたいが,すでにのちのケインズ反革命を用意する運命にあった.もちろん,こうした事態を招いた原因のかなりの部分は,ケインズ自身にある.』
P317『需給均衡の枠組みに頼っているかぎり,ケインズの独自概念である有効需要を適切に定義できない.(中略)しかし,それは需給均衡の枠組みの中でそうだと言うにすぎない.』
ケインズは、素晴らしい指摘をいくつもしている。有効需要という概念は、特に秀逸なものであり、不況を説明することに優れている。その当時の主流経済学が、まったく説明できず、対策を打ち出せなかったものに、道筋を開いたことに関して大いに評価できるだろう。ケインズ革命とまで言われる1960年代の席巻も当然のことだ。しかしながら、ケインズは間違いをおかしていないわけではない。ケインズもまた需給均衡という問題のある理論を信じて間違いをおかしていた。それゆえ実証に合わないことがあっても不思議はないのである。ケインズ反革命がその後起こり、ケインズは否定されることになったわけだが、否定されたことはともかく、否定された部分というのが、ケインズの貢献の中の正しく重要な部分で、ケインズのおかした誤りは、逆に新自由主義にとりこまれて生き長らえてきた。リーマンショックを受けて、新自由主義の経済学の信憑性が落ちて、ケインズが復活することになったわけだが、個々の理論をひとつひとつ検証していくのではなく、画期的な成果をあげた誰かに対して、信仰のように全てを肯定し、失敗すれば、全て否定されるような、経済学の動きには疑問を持たざるを得ない。
次はマルクス。
マルクス派の経済学を学ぶ人々に関しても、前述の経済学のカルト的傾向がみられたようだ。引用しよう。
P242
『問題は,個々の論点よりも,かれらの理論分析における作風にまず問題がある.その考察の多くは,解釈学的なものか(本質論という名前をもつ)形而上学的
なものであった.(中略)解釈学について言えば,この立場に立つ人たちは,マルクスの断片を集めれば,そこになんらかの真実ないし理論的突破口が隠されて
いるという前提に立っている.(中略)社会主義への希望とマルクスの権威への盲従から,小さな文面にも大きな啓示が隠されているかのごとき字句解釈とそれ
にそった理論の探索がおこなわれてきた.(中略)マルクス派以外の貢献を真剣に検討しようともしなかった.さらに言えば,マルクス経済学以外の経済学と理
論的に対立しているにもかかわらず,単なる非難の投げかけをのぞいては,マルクス派以外の経済学を内在的に批判・検討し、みずからの研究の糧とすることも
珍しかった.』
マルクスの経済学に嵌った人間は過去に大勢いて、社会主義国や共産主義国の悲惨な程の失敗を見た後でも、その正しさを主張する場面をたまに見かけることが
ある。日本は実はマルクス派の経済学が盛んだった国であり、未だに力も持っているようだ。
欧米では、その明らかな失敗から、全否定の状況である。マルクス派以外の理論が、マルクスの理論の一部と合致することで、非難の対象にすらなったりするくらいである。これも好ましくない姿勢である。
マルクスの理論で秀逸なのは、搾取という概念だろう。これを念頭において経済を見れば、構造が見えてくる。一方、多々ある誤りの中で、民主主義の軽視こそ最大のものだろうと思われる。