江戸時代の探検家近藤重蔵の石像。( ˘ω˘ ) | 千葉の歴史、名所、旧跡アドバイザー・尼木のブログ

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江戸時代中期から後期になると日本近海に

外国船が出没するようになり・江戸幕府は

海防の必要性を重視し・日本の海岸線の測量

を実施するようになりました。( ˘ω˘ )

 

江戸時代の探検家としては地球一周に相当する

約42,000kmを歩き・大日本沿海輿地全図を

完成させた伊能忠敬と伊能忠敬から測量技術を

学び・樺太が島であることを発見した間宮林蔵が

有名です。(^^♪

伊能忠敬旧居と九十九里町小関の生家跡の銅像。!(^^)!

茨城県つくばみらい市にある間宮林蔵記念館。!(^^)!

それ以前に蝦夷地や千島列島を探検・調査したのが

近藤重蔵(近藤守重)です。近藤重蔵は明和8年(1771年)

現在の文京区駒込に生まれ・25歳で長崎奉行出役に

抜擢されました。(*'▽')

近藤重蔵所縁の北区滝野川に建つ正受院です。

また蝦夷地探検の重要性を幕府に上申し寛政10年

(1799年)春に最上徳内らと蝦夷地や国後・択捉・得撫島

の探検を行いました。(*‘∀‘)

正受院境内に建つ近藤重蔵の石像です。

その後も近藤重蔵は江戸と北方の地を往復し・択捉島に

大日本恵土呂府の木標を建てました。この功績により

将軍徳川家斉に謁見が許されたとのことです。(^^♪

しかし文化5年(1808年)書物奉行に抜擢された際

時の老中水野忠成との確執・情報漏洩などで大坂弓奉行に

左遷され・その後現在の北区滝野川に閑居致しました。

 

文政9年(1826年)息子の富蔵が殺傷事件を起こし八丈島に

配流され・近藤家は改易・近藤重蔵は近江国大溝藩預りに

なり・文政12年(1829年)59歳でその生涯を閉じました。(´-ω-`)

 

文京区向丘西善寺に建つ近藤重蔵の墓所です。

晩年歴史の表舞台から身を潜めましたが北方探検の礎を

築いた功績は素晴らしいです。(*'▽')

 

真冬に北海道宗谷岬を訪れた・あまきオフィス

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