麻美とコーヒー | chiakisstoryのブログ

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カウンターでコーヒーを受け取り店内を見渡す.
木目調のテーブルを基調としたおしゃれな空間,話し声やコーヒーメーカーのモーター音がせわしく響く.
できるだけ入り口から遠い方がレポートに集中できるような気がした.
空席を見つけ,鞄をかごに入れて腰を下ろす.
ふーっと深呼吸をしてパソコンを取り出し,ブルーライトメガネをクイッとあげる.
ひとまずWi-Fiのパスワードを入れてコーヒーに手をのばす.
ホットコーヒーの蓋の飲み口を開く
猫舌だけど,11月に入ってからすっかり寒くなってしまい,アイスコーヒーを頼む方が気が引けた.
火傷しないように恐る恐るコップを傾ける.
だけど,黒い液体が流れてくる直前で手を止めた.
あっつ.
もう少し経ってからにしよう.
PDFファイルを開き,大学の課題レポートの内容を確認するために視線を左右へ動かす.
『ドイツ語の発音と日本語の発音の方法の違いについて考察し課題をあげなさい.
また,日本人が流暢にドイツ語を発音するためにどのようなエクササイズが考えられるか検討しなさい』
あー,こんなんだっけ.
水品(みずしな)先生の研究内容まんまじゃん.
真面目に卒論書くなら水品先生の研究内容が一番興味あるし実用的だけど.
彼の少し芝居がかった悪い笑顔がふと頭に浮かぶ.
まだ5分も座ってないけどだるくなってきた.
頬杖をついて白紙のワードファイルとにらめっこ.
自分で考えても埒があかなそう.
あきらめてChatGPTに課題文ごとコピペする.
だが,母音や子音が違うとか,日本語とイントネーションが違うとかだれでも知っていることしか出てこない.
過去レポは先輩からもらったけど...
私でもこれがダメなのはよくわかる.
染谷くんはこの授業とってないし...
やっぱり,自分で考えるか...
...
大学生ってみんなが思っているより遊んでないよね.
レポート,アルバイト.
平日,休日問わず忙しく動き回っている気がする.
木部ちゃんなんて,サービスの運用とかで年中四苦八苦してるし.
でも私が忙しーってぐちを誰かにこぼすと,可愛いから,年中いろんな男に奢られてそうだもんねとか嫌味言われる.
そこは想像にお任せってかんじだけどそんなに変わり映えするような日常,送ってるかな?
インスタのストーリーとかはむしろ一人でいった韓国料理やさんとか淡々とあげてるし.
あ,そろそろコーヒー冷めたかな?
若干温くなっているような気がしたので迷わず口に注いだ.
芳醇な香りと苦味が口の中に広がる.
誰にでも好かれるチェーン店の味.
あー.
これこそがブランドの証.
大学生のマストアイテム.
課題,コーヒーとドイツの関係とかだったら面白いと思うんだけどー.
何か音楽でも聞こうと鞄からイヤホンを取り出す.
するとみなれた白いスニーカーが目につく.
座り直す動きのなかでさとられないように隣の席の人の顔をちらっと覗く.
するとやはり,見慣れたものがあった.
あの人を見下す機能までついているのではないかと思わせる縁のとがったメガネをかけていない.
けれど,柔道で潰れてしまったあの耳は間違いない.
教員の中では比較的若めだけどその分一目をおかれている.水品先生だ.
え,なに?
さっきまで課題出した人の前でズルしようとしてたの?私.
罪悪感で体がかーっとする...と思ったけどそんなにしなかった.
だって難しすぎるし.
出した方が悪い.
彼は何かスマホで見ているようだけど,わからない.
真剣に頬杖をついたその上に顎をのせ,眉間に皺を寄せている.
見すぎ??
でも君も大学の先生が週末どう過ごしているかはみんな気になるでしょ?
と思うと,視線があってしまった.
向こうは咄嗟にスマホの画面を閉じるが私が誰かはわからないようだ.
より眉間に皺を寄せて記憶を辿ろうとしてくれている.
「こんにちは,先生のドイツ語話法をとっている七海です」
忘れていそうだったので私から自己紹介.
「あー,七海さん!」
手をぱちんと合わせ,いつものハイテンションで少し悪そうに笑う.
この顔,演技じゃないんだ.
「すみません,こちらからお声がけしてもよいか考えてしまって」
「いやいや,こっちも気が付かなくて」
あまり話したことはなかったのにしっかり覚えてくれているようだ.
四十代とは思えないキラキラしたSっ気たっぷりの表情をしている.
まあ,私ぐらい可愛いと忘れられるとかほぼないけど,研究者ってあんまり人に興味なさそうじゃん?
だから少し嬉しかった.
「奇遇ぅ〜,ここで何してるの?」
たまに語尾のオネエ口調が若干きになるけどこれは平常運転.
「先生の講義のレポートをやっていました」
「え??そんなときに出会っちゃったのぉ」
言い方...
「はい」
「ちゃんとやってて偉いわね〜」
語尾は明るいが目尻が笑っていない.
オフでも営業モードなのかな.
「でも,難しくて,煮詰まっちゃって」
「ふふっ,考え甲斐があっていいでしょ?」
いつもに増して悪い顔にみえる.
やっぱり考えることを前提にして作っている.
ネットで調べても簡単にはわからないようになっているのは想定の範囲みたい.
「そうですね」
「大学生だから自分の頭を使って欲しいんだよね〜」
あわよくば,切り口をもらおうとしたけど先手をとられてしまった.
「ははは」
私は彼に合わせて苦笑いを浮かべるしかない.
こっちの考えていることは全部お見通しってかんじ.
さすが,といえばそのとおりかもしれない.
「これも何かの運命だと思ってちょっと私の雑談に付き合ってよ」
彼は有無を言わさず話し始める.
ドイツと日本の教育制度の違いについてちょっと話したと思ったら,ドイツ人はビールでバーベキューの火を消すんだぜ,とか向こうでトイレに一緒に行こうって誘われてついていったらとんでもない目にあったとか,そういう話をしてくれた.
留学を考えないこともないので,そういう話は興味あるし聞くだけでも結構面白い.
もちろん話も上手い.
ドイツの政治学や社会学についても質問したら嬉しそうに答えてくれる.
その一つ一つから彼の素晴らしい洞察力やドイツ人との関係を深めるためのコミュニケーション能力を垣間見る.
まあ,私の話も聞いて欲しいけど...
先生はこくこく楽しそうにうなずく私をすっかり気に入ったみたいだ.
「話しすぎちゃってごめんなさいね」
と詫びを入れてくれる.
「七海さんはどうしてドイツ語専攻なの?」
と訊いてくれたので,いつぞやの父との顛末を端的に彼に話した.
「いいところに目をつけたわねー」
と言わんばかりに目を大きく広げ頷いてくれる.
「ちゃんとしてて偉いわね」
そしてようやく彼は目を細めた.
コーヒーはすでに半分を飲み終えカップも生ぬるくなってきている.
体も温まり彼に対してどこか感じていた気難しさも感じなくなっていた.
「私は練大のOBでもあるけど君みたいな後輩は心から応援したくなるよ」
「ありがとうございます」
彼への敬意があるからかその言葉は素直に受け取れる.
でも,私が来週のハワイアンズでやりたいことっていうのを彼は素直に応援してくれるだろうか.
「いまいくつ?」
「最近21になりました」
「21?そうかー」
少し考えればすぐわかりそうだがなにかを見定めるように数回頷く.
「30までは,いくらでも新しいこと始められるから,やりたいことがあればどんどんやるといい」
いつのまにかおねえ口調じゃなくなっていることにようやく気がつく.
彼なりの敬意の表れなのだろうか.
すっかり体もこっちを向いている.
もっとクールなイメージだったけどとても真摯な態度.
彼の機微な対応の変化が私を受け入れてくれているのがよくわかる.
「それは悪いことでも?」
あくまでも例の一つにすぎないけど,って注釈が相手に伝わるようにサラッと,でも懸命に私はきいた.
もちろん,私は悪いことをするわけではないつもりだけど...
捉え方によってはそう思う人もいるかもしれない...
そういう一抹の不安を,彼にぶつけてみたくなった.
彼は一瞬顔を曇らせた.
でも,またいつもの悪い笑顔で
「自分の正義に従っているならいいんじゃない」
と明るく返してくれた.
「あ,もちろん法律とかあるからそれは守るべきだけど」
と手を振りながら慌てて注釈を入れてくれる彼はなんだか可愛い.
「うちの娘はバイキンマンのほうが好きなんだけど」
「?」
「悪を愛するっていうのは人間に本来そなわっているんだろうね」
「...」
「いや,だから,きっと応援してくれる人もいるし僕も応援してるから...」
彼は墓穴を掘っていると思っているらしいけど...
私はコーヒーの最後の一口を一気に飲み干す.
そして.
「ありがとうございます」
と彼に笑顔を向けた.

店を出ると,空は赤い光と紫色の雲に包まれていた.
辺りにはだれもいない.
私はカバンからリップを取り出し乾燥した唇に塗り,全体に広げる.
「...ちづるさん......」
居酒屋,下田,歩道橋でのことが蘇る.
彼女の薄っぺらい笑顔があのときからずっと離れなかった.
どれだけ,この日を待っていたのか.
私の気持ちをあなたには想像できないでしょう.
「.......私は私が正しいと思うことを信じるから.......」
風が吹き,私の呟きをさらっていく.
私は再び自分の唇をぺろっと舐めた.