タイミングが合えば必ず参加している語りの場。ほうろく灸の開場にも使わせていただいている 昭和のおうち 空にて、参加者6名+主催者さんでゆったりと ひとりひとりの時間を十分にいただいて、お話をする会です。
御題は池田晶子著「14歳からの哲学」、
当たり前だと思うことさえないほど当たり前のことを、捉えなおすとしたらどんな視点があるのかを提供してくれる本です。
今回の章は、言葉1。
周りよみの音読をした後に自由に語り合いが始まります。今回も様々なお話が出ました。
印象に残っているのは サバン症候群の絵を描く人の話。
信じられないくらい緻密な絵を何も見ずに描けるけれど話すことができない男性が、言語の専門家がとりくんで、多少の意思表示の音を出すことができるようになった。と同時にそれと引き換えのように、描く絵に緻密さの度合いが低い部分が表れた。
といいます。
言葉の概念を得たことにより、今まで目からとらえたものをそのまま絵に転換していたことが、言葉で捉える部分ができたことで抽象化されてしまったのではないか、ともいわれているそうです。
私はこう思いました。「彼にとって緻密画を描くという事は内面の発露で、誰かに認めてもらうためのものではないから、例え緻密さが失われても発声により代用できるならば、それはそれでいいのではないか、すごい絵を描けなくなって残念だ、というのは外野の勝手な価値基準を押し付けているだけかもしれない。」
そういう点は確認できるほど彼の言語によるコミュニケーションは発達していないので、想像をするしかないことなのですが。
このサバン症候群の男性の話を受けて、ネガティブな思いを持った方もおられたようでした。「ことばにすると感覚が失われてしまうのか」と。
わたしは、そのときに鍼灸の事を思い出しました。
自然に手が行くところ、それが手当であり、治療の最初です。感覚の鋭い治療家は、患者さんに向かい合っただけで、自然にどこかに手を置きます。それが、相手にとって一番おいてほしい場所であったりします。患部の場合もあるし、患者さんがそこだと気づいていない、病の元となっている場所で合ったりします。
東洋医学を学ぶという事は、そういう感覚に基づいて得られ、積み重ねられてきたものの記録を学ぶということでもあります。それは、書物に書かれた「言葉」です。そして、学んだとき、何も学ばなければ、自然にできていたことが、「言葉」を得てしまったために自分の感覚を信じられず、迷いが生じてどこに手をおくべきなのか、逆にわからなくなってしまう事があります。
だから、感覚だけで治療をする、と言う人もいます。
それはそれで、一つのやり方です。けれど、わたしはそのやり方には限界があると思っています。せっかく、何千年もかけて積み上げられた叡智があるのに、それを学ばずに自分の感覚だけでやるというのはもったいないことです。患者さんに対してベストを尽くしているとは思えません。
けれど、感覚を失ってしまった治療も片手落ちなものです。先人の残した「言葉」を通して患者さんに向き合う時に、その患者さんを見ずに過去の患者さんにあてはめてしまうことになり、ぴったりとした治療ができない、ということもおこります。
ですから、臨床を積み重ねる中で、学んだ言葉を自分のものにしていく必要があります。
「言葉」で学んだことと、自分の感覚とで、相談しながら治療をする。言語化できない部分の感覚も大事にする。その感覚が、東洋医学的に解釈するならどういう事なのかを考える。それを繰り返していくことで、「言葉」と感覚がつながって、治療の幅が広がり、奥深いものになっていき、治療の効果が増すことにつながっていく。そういうものだと捉え、それを治療の場で実践を続けています。
言葉は、最初は感覚を失わせるかもしれないけれど、ずっと突き詰めて行けば、感覚を増す道具ともなることができるのです。
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