ヒトの気持ちまでは、法律では縛れない


たとえ自分自身であろうとも、

恋心を抱かぬようになど

コントロール出来ようもない


たとえ神前で、仏前で、

立てた誓いがあったとしても、だ。



勝手に動いて、ときめいてしまう心を

誰にも止められようが無いと思う


揺れ動いた自分の心に

従ってしまわぬようにと


心の奥底に押し込んでしまおうとしても


勝手に瞳の奥が輝いてしまうし、


ときめかないように、と、思っても

勝手に胸の奥で鼓動が早くなってしまう




会いたい



と、そう思ってしまう。



法律や、宣誓など

そんなもので相手を縛ることなど

出来っこない



と、そう思う。




惹かれあってしまうのは、

自分でもコントロール不可能な場所で

感じ合う何かなのだから。



自分ひとりが感じてしまう時もあれば

お互いに惹かれあってしまう時もあって


そんな奇跡は、


確か結婚する時にもあった気もするから



一過性のものかもしれないけど



ヒトには

一生のうちに出会う人の数があって、


そのうちの全員ではなく、

ひと握り、よりも、

たぶんもっと少なく


限りなく少ない、と思われる数の

たぶん、それは奇跡に近くて


同時期、同時に、


お互いに

心に何かを感じてしまう『何か』


その奇跡を

大切にしては イケナイんだろうかショボーン



倫理がどうとか


家族がどうとか




ひとりの個人としての人生は

そのひと、ひとりのもので



いろんな人と関わり合って

生きてはいるけど


それぞれが


自分の人生 という道を歩んでるなかで


すれ違ってみたり


交わってみたり、


離れてみたりアセアセ




海外の人で考えると、

たとえ両親が別れて

それぞれに別の相手がいても、


葛藤はあっても

最終的には、

ひとりのヒトとして


女である母の人生も

男である父の人生も


認め合い、受け入れて


何が変わろうとも

母であることに違いはないし


たとえ離れていようとも

父であるヒトの人生も認めて生きている



なぜに日本人は、

母や父や、妻や夫である前に


その人が、ひとりのヒトである

ということは

認めないのかなぁアセアセ




死ぬ時に考えるであろうことは

たぶん、



自分ひとりで死にゆく今、

自分は

自分の人生をちゃんと生きてきたのか?

誰に遠慮することなく

自分自身に正直に

悔いなく

思い残すことなく死ねる、

そう思える人生だったのかどうか



だと思う




周りを困らせたかもしれぬが、

だが、決して

自分自身には嘘をつかずに

生きてこれた


後悔はひとつもない

心残りも無い


ジタバタせずに、

甘んじて、その時を待てるお願い


そう思って

死ねるかどうかじゃないかな




身勝手かもしれないけれど


自分自身の心にだけは

自分にだけは、

裏切らずに

生きられたお願い



そう思っても、いいんじゃないかな?



だって、


ヒトは


ひとりで死んでゆくのだから



自分自身にだけは、

胸を張って

死んで行きたいな



そう思ってしまう





たったひとつ、


言うとするならば




共に暮らして

過ごしていたはずの相手の心が


別の人に揺れ動いてしまう


惹かれあってしまう



そんな、

いつの間にか、


心に隙間が出来て

寂しさを埋めたくなるように

させてしまっていたことに


少しも気付かないでいたことを

恥じることだ



たとえ心が揺れ動いたとしても、


最後に歯止めになるものがあったならば、

行動することには

ブレーキもかかっていたかもしれない



本当に大切にしていたのか


大切に出来ていたのか


いつのまにか

居心地を悪くさせていなかったか


責める前に

自分自身を先ず

振り返るべきだ