御節料理 歴史 由来
「おせち」は「御節供(おせちく、おせつく)」や「節会(せちえ)」の略であり、中国から伝わった五節供の行事に由来する。奈良時代には朝廷内で節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであったとされる。
この五節会の儀を、一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられている。(五節句の行事は明治6年太政官布告によって朝廷の行事としては廃止された。また、五節供のうちの人日は陰暦1月7日であったが、新暦採用により約1か月ほど早まることになった。『NHKきょうの料理 定本正月料理』「おせち」の由来 柳原一成 p121。)元々は五節句の祝儀料理全てを言ったが、後に最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」と称し、歳神様に三方(さんぼう)などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり、家族も食べたりした。