八幡神 神仏習合

 


東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応(てんおう)元年(781年朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている。



平安時代以降、清和源氏桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社(はちまんじんじゃ、やはたじんじゃ、やわたじんじゃ)が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。