神武天皇 生涯 東征 退却と迂回
難波(浪速)から河内国草香邑(くさかむら)に至り、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山(いこまやま。生駒山)を経て中洲へ入ろうとした。この時に長髄彦(ながすねひこ)という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえざか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄 五瀬命は流れ矢にあたって負傷した(のちに薨去)。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返し、草香津まで退いてそこから船を出した。
その後熊野を経て再び船を出すが暴風雨に遭い、進軍が阻まれることに憤慨した磐余彦尊の兄稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)は東征軍から去ってしまった。
磐余彦尊は熊野に再上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下(くまのたかくらじ)は、霊夢を見たと称して韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ。かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開したが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県(うだのしもつこおり)にいたった。菟田県(うだのあがた)を平定し、その後吉野を平定した。
磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると敵軍が充満しているのが見え、これをにくんだ。この夜の夢で天神地祇をまつるように天神より告げられた磐余彦尊は、それを実行して国見丘に八十梟帥(やそたける)を討った。その後磯城を平定した。