大神神社(栃木市) 歴史 概史

 


平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国 都賀郡(つがぐん) 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。



また、古代国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡(しもつけこくちょうあと)も発掘されている。



平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照(みながわ ひろてる)の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年天和2年)に現在の形へと復興したという。



しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。



明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年大正13年)に社殿の大改修、1993年平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。