大國神社(伊勢崎市) 歴史 創建
社伝(明和年間(1764年-1772年)の大国五護宮縁起)・『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来た(「渕名」(ふちな)の地名由来)。その後天皇は車臨を賞し、当社を祀らせるとともに当地を与えたと伝えられる。また垂仁天皇15年9月には、丹波国穴太郷(あのうごう)から五媛の宮を勧請・合祀したという。
一説に当社創建について、『上野国神名帳』の佐位郡項に「大国玉明神」と「郡玉明神(くにたまみょうじん、非現存)」の名が見えることから、国玉を「国司の神」、郡玉を「郡司の神」とみる説がある。そして前者にあたる当社は、当地の郡司が「上毛野国造」の栄誉称号を与えられた際(後述)、新たに創建されたと指摘される。この説では、檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)が「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられた記事から、檜前部一族が佐位郡司であったと推測される。併せて、当社北西方にあり佐位郡衙跡とも推測される十三宝塚遺跡(じゅうさんぽうづかいせき)との関係性も指摘されている。
なお『和名抄』に見える「佐位郡淵名郷」は、当地に比定される。