倭文神社(伊勢崎市) 歴史 概史
国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)の「正六位上委文神」を官社に列すという記事で、同年に神階は従五位下に昇叙された。
『延喜式』神名帳では上野国 佐位郡(さいぐん)に「倭文神社」と記載され、式内社に列している。この「佐位郡」は、佐波郡(さわぐん。明治に佐位郡・那波郡(なわぐん)を合併)の前身にあたる。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正三位委文明神社」と記されるとともに「向殿壱宇、間垣壱廻、鳥居壱基」と記載がある。また『上野国神名帳』では、総社本では鎮守10社の9番目、一宮本では鎮守12社の11番目に「従一位倭文大明神」と記載されている。
南北朝時代成立の『神道集』では「九宮ヲハ那波ノ下ノ宮ニ、少智ノ大明神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の九宮であったと見られている(「下ノ宮」は誤記と見られる)。また同集によると、当社の本地仏は如意輪観音であった。
当社には祀官に真下(ましも)氏がいたが、戦国時代の兵火で社殿は焼失、社家も離散したという。その後江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1644年)に慈眼寺(じげんじ)が別当となり、慶安元年(1648ね)に朱印地10石が与えられた。社殿は享保12年(1727年)に再興されたが、慶応2年(1866年)に焼失した。
明治維新後、近代社格制度において郷社に列した。また、大正14年(1925年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。