火雷神社(玉村町) 歴史 概史

 


国史の初見は、『日本後紀延暦15年(796年)に賀茂神社美和神社とともに「那波郡(なわぐん)火雷神」を官社と為すという記事である。これら3神は、いずれも大和地方からの勧請と見られている


(賀茂 = 高鴨神社(たかかもじんじゃ)


美和 = 大神神社(おおみわじんじゃ)


火雷 = 葛木坐火雷神社(かつらきいますほのいかづちじんじゃ)

 



延喜式神名帳では上野国那波郡に「火雷神社」と記載され、式内社に列している。『日本後紀』『延喜式』いずれにも「那波郡」と記載されるが、この郡は佐波郡(明治に佐位郡(さいぐん)・那波郡を合併)の前身にあたる。



長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正二位火雷明神社」と記されるとともに「神館壱宇、鳥居壱基、間垣壱廻」と記載がある。また『上野国神名帳』では、総社本では鎮守10社の8番目、一宮本では鎮守12社の10番目に「従一位火雷大明神」と記載されている。



南北朝時代成立の『神道集』では「八宮ヲハ那波ノ上ノ宮、火雷神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の八宮であったと見られている(「上ノ宮」は誤記と見られる)。また同集によると、当社の本地仏虚空蔵菩薩であった。中世には那波(なわ)氏新田(にった)氏から崇敬され、盛時には4町四方の社域を有したが、那波氏衰退とともに当社も零落したと伝える。



近世には天神信仰により「火雷天神社」と称された。



明治5年(1872年)7月、近代社格制度において郷社に列した。