都久夫須麻神社 歴史 概史

 


天智天皇による志賀宮(しがのみや。近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。



神亀元年(724年、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺(ほうごんじ))を開基させたという。また、天平3年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったといわれるほか行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。



日本三代実録元慶3年(879年)2月29日条には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。



平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。



慶長7年(1602年)、豊臣秀頼片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。



明治に入り、明治新政府は神仏分離例を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。