星宮社 歴史 星と隕石に関する伝承

 


星崎一帯には、古来から星や隕石についての記録や伝承が残っている。星崎の地名については以下の説がある。

 


· 尾張徇行記は、承平5年(935年)、平将門の乱が起きた際、勅命により熱田大明神(熱田神宮)で平将門調伏の祈願を行ったという伝承を記している。別説に、熱田年中行事には、熱田神宮の神輿を星宮社に渡御したとある。社家が祈願をすると、星宮社で七星が耀(かがや)いたので、その村を星崎と呼ぶようになったという。

 


· 尾張志は、「星社あるによりておこれる星崎の地名ならむには星崎とよめる歌の堀河天皇初度の百首に見えたるにても其時代は大概おしはからるる也」とし、星宮社が地名の由来であるとしている。愛知郡誌は、同じく「星崎の地名は、星宮社有によりて起これるものならんか」と考察を付している。

 


· 毎日新聞の「町名由来記」(1954年)は、元久2年5月24日(1205年)、入江に明星が降りたことから星崎と鳴海の地名が生じたと記している。

 




確実な記録としては、寛永9年8月14日(1632年)、本地村の隣村であった南野村に落ちた「南野隕石」がある。当時の様子が尾張名所図会の付録「小治田之真清水」に描かれている。隕石は「星石」として民家に保存されていたが、文政12年(1829年)、同村にある喚続社(よびつぎしゃ)に寄進され、その神体になった。隕石を収められている木箱には表に「霊石」と書かれている。昭和51年8月15日(1976年)、国立科学博物館の村山定夫(むらやま さだお)により隕石と同定され、「南野隕石」と命名された。現在、落下年代が分かっている隕石としては、直方隕石(のおがたいんせき)に次ぎ、日本で2番目に古いものである。



8世紀、13世紀にもこの地方に「隕石が落ちた」という言い伝えがある。これは上記の承平5年(935年)と元久2年(1205年)の伝承を指していると考えられる。なお、星宮社が隕石の落下地点であるとか、隕石を神体として祀っているというわけではない。