野見宿禰 人物

 

天穂日命(あめのほひのみこと)の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、第12代の出雲国造である鵜濡渟うかつくぬ。宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命(かねすねのみこと)という。垂仁天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや)角力(すもう。相撲。『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市 當麻(たいま))を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。また、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)のを与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。



ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。