上御井神社 歴史

 


創建は未詳。『止由気宮儀式帳』には神社としての記載はないが、「御井」や「御井神」という語句が記載されている。「御井二所」という記述もあり、上御井と下御井を表すものと思われる。『風雅和歌集(ふうがわかしゅう)には以下のような短歌が収録されている。

 


世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の 天より移す をしほ井の水 」 

 


この歌の「をしほ井」(忍穂井(おしほい))が上御井を意味し、外宮神官家の度会氏の遠祖が高天原から日向国 高千穂峰(たかちほのみね)に持ち下り、丹波国天の真名井(あめのまない)に移され、豊受大神伊勢国への鎮座に伴い、井戸も移ったという伝承がある。



度会氏が神官を務めていた頃、御饌を用意する役目(御炊物忌=みかしぎのものいみ)は度会氏一族の童女を選んでいたが、御炊物忌を補助する者として物忌父(ものいみのちち)がいた。物忌父は多くの任務があったが、上御井から水を汲んだり、御井の掃除をしたりするのも彼の役割であったと櫻井勝之進(さくらい かつのしん)は述べている。『世々のめぐみ』によると、慶安元年5月(グレゴリオ暦1648年6月 - 7月)に外宮の火除のために宮域を整理したが、それまでは忍穂井(上御井)のそばまで民家が建っていたという。



明治5年6月(グレゴリオ暦:1872年7月)、教部省は『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社を一律に神宮所管から外し、度会県および三重県管轄に移行したため、上御井神社も神宮所管から離れることとなった。日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい、常典御饌(じょうてんみけ)とも)には上御井の水が不可欠であるため、神宮はやむなく新しい井戸を掘って上御井神社の水を移すという苦肉の策をとったが、翌1873年(明治6年)に許可を得て、上御井神社と下御井神社を外宮所管社に復帰させた。1910年(明治43年)10月に覆屋が造り替えられた。