櫟谷宗像神社 歴史 概史
櫟谷社に関しては、国史では嘉祥元年(848年)に従五位下、貞観10年(868年)に正五位下の神階奉叙の記事が見える。また貞観12年(870年)の記事では、葛野鋳銭所近くの宗像・櫟谷・清水・堰(せき)・小社の5社に対して賀茂上下社・松尾社とともに新鋳銭を奉納したと見えることから、宗像社・櫟谷社は元々独立社であったとされる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡(かどのぐん)に「櫟谷神社」と記載されて櫟谷社が式内社に列している。
その後仁安(にんなん、にんあん)2年(1167年)3月25日には「松尾末社櫟谷旅所老尼一人頓死」という記載が見えるほか(『続左丞抄』。ぞくさじょうしょう)、仁治2年(1241年)にはやはり「松尾末社」である櫟谷宗形両社が焼亡して神体を焼いたという。また寛元2年(1244年)には、山崩れが発生して大堰川が塞がれ、末社宗像社では鏡石が落ちたという。このように、古くから両社は松尾大社の末社であった。
室町時代初期の「松尾神社境内絵図」では、櫟谷社・宗像社両社は独立社殿ながら隣接して描かれている。
明治維新後、明治11年(1878年)3月に両社は松尾神社摂社に定められた。