湊川神社 歴史 創建前史 楠公の墓 ②
「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『史記』伯夷伝(はくいでん)を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。1657年(明暦3年)、江戸駒籠(駒込。こまごめ)の藩邸に史書編纂所(のちの彰考館(しょうこうかん))を設置し、『大日本史』の編纂に着手した。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、室町幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。
こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。
この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす2人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳(さっさ すけさぶろう むねきよ)であり、もう一人は廣嚴寺(こうごんじ。広厳寺。楠寺(くすのきでら))の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの2人の出会いにより、実現への運びをみるのである。
佐々宗淳(さっさ むねきよ。佐々十竹(さっさ じっちく))は、もと京都妙心寺の僧侶で還俗したのち、延宝年間(1673年 - 1681年)に史臣として水戸藩に仕えることとなった。佐々宗淳は楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。
楠木正成の墓の近くには廣嚴寺(こうごんじ。広厳寺)という、湊川神社創建まで長らく楠公墓を管理してきた臨済宗の寺院がある。かつては大伽藍を誇り、正成が自害したのも、廣嚴寺境内にあった無為庵(むいあん)という堂であったという。湊川の戦いで廣嚴寺は焼亡し、荒れ果てたという。千巖はその中興の祖で諱を宗般(しゅうはん)といい、大和の達磨寺(だるまじ)・伊勢の宝光院を経て、1674年(延宝2年)に廣嚴寺に来た。千巖が廣嚴寺に来たときには、廣嚴寺は荒廃しており、千巖はこの復興に尽力する。