静岡浅間神社 歴史

 


鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳しずはたやまこふん。国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏(はたうじ)の氏寺である建穂寺(たきょうじ)、秦久能(はたの ひさよし)建立と伝えられる久能寺(くのうじ)など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。



当地に鎮座して以来、当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家今川武田織田豊臣徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などの事績は枚挙にいとまがない。ことに徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺(りんざいじ)に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。 そして1582年(天正10年)、三河遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。



以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願諸となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになった。 例えば、江戸時代初期の駿府主・駿河大納言 徳川忠長(とくがわ ただなが)は、この賤機山で猿狩りを行い当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。 こうした経緯から、明治初年に至るまでの社領等の総石高は2313石にも及んでいた。