天探女 解説
『古事記』の記述では何とも不吉な役割を演じているが、元来は神託を受けて吉凶を判断する巫女を神格化した存在と考えられ、政治と祭祀が一体であった時代に神託を捻じ曲げる巫女の存在は神への反逆であり、災いとなると受け止められた事が天探女なる女神の姿に反映したものと思われ、また、そのためか天探女は他の神とは違う特異な位置づけであり、記紀では神々は「命」や「神」と尊称を付けられているが、天探女は呼び捨てにされているとの説がある。また、呼称に天がつけられるのは天津神など天にかかわりの深い神の特徴であるが、天探女だけは、天つ神であるか否か、はっきりせず、『摂津国風土記』逸文・高津には『天稚彦天下(あめくだ)りし時、天稚彦に属(つき)て下れる神、天の探女』とあり「天津神」と解しうるが、『日本書紀』の一書には『時に国神有り。天探女と号(なづ)く』とあり「国神」とも記述されている。民話の天邪鬼の原像との説もある。
古典において、天磐船に乗った天探女が停泊した場所は高津であるとされる場合がある。たとえば江戸時代の『続歌林良材集・上』(ぞく かりんりょうざいしゅう・じょう)に引用されている『摂津国風土記』(逸文)には『難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属(つき)て下れる神、天の探女、磐舟に乗て爰(ここ)に至る。天磐船の泊(はつ)る故を以て、高津と號す』とある。また万葉集には『ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津はあせにけるかも(久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳)(巻3・292番)』とある。