射水神社 歴史 明治時代以降 ②
遷座当日、二上村の氏子は別れを惜しんで神輿に取りすがり号泣し、さらに御神体や神宝を社殿の天井裏や民家に隠したとも言われる、と『高岡市史 上巻』では当時の様子を伝えている。『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』でも、遷座の様子を同様に記している。
この遷座に関して、『高岡市史 下巻』に大正13年(1924年)当神社宮司を勤めた高野義太郎(たかの よしたろう)が著した『射水神社志』の一節が掲載されている。それによれば、権宮司 関守一氏は数百年にわたる養老寺社僧の専横を憎む余り、神代からの聖地である二上山麓の故地を捨てて遷座したのだと言う。祠官関家は二上山に30代奉仕し、越中神主頭として大宮司の栄職を継いで来た家柄で、射水神社の遷座は数百年間社僧に虐げられた反抗の結果に外ならない、と述べられている。『高岡市史 上巻』や『中世諸国一宮制の基礎的研究』においても、遷座について同様の記述がなされている。『高岡市史 下巻』では、上記の『射水神社志』の一節を引き、高野義太郎宮司の推論は恐らく当たっており、そうであるなら、この遷座の一件も神仏分離令に端を発する廃仏毀釈の旋風がもたらした出来事の一つではないか、と考察している。
『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』によれば、遷座の3日後、二上の氏子達は新社殿までの道のりが遠いことを理由に二上山麓の旧社地に分社を創立することを出願し、明治10年(1877年)許可を得て二上射水神社が残されることになったのだと言う。このため、二上山内には射水神社の摂末社があり、また、古来から伝わる築山神事と獅子舞が二上射水神社のみで催されることになってしまった。
明治33年(1900年)6月27日、市街地の6割を焼き尽くした高岡大火により社殿が焼失したが、明治35年(1902年)に再建された。現在ある神明造の社殿は、この時に再建されたものである。
第2次世界大戦の終戦に伴い旧社格は廃止され、その後、当神社は神社本庁が包括する別表神社となった。また、二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)が独立の神社となり、正式名称を「越中総社射水神社」とした。それに対して高岡古城公園の当神社は「越中総鎮守射水神社」と称している。
昭和50年(1975年)、日本書紀に天武天皇3年(674年)頒幣を賜った記述が見えることにより鎮座千三百年式年大祭が斎行され、昭和天皇より幣帛御奉納を受けている。