鳥海山大物忌神社 歴史 中世
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという。
承久2年(1220年)、藤原氏(三善(みよし)氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目(きため)の新留守(しんるす)氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる。
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」(1342年) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる。なお、戸川安章(とがわ あんしょう)によれば、当時、鰐口(わにぐち)は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる。
当神社は出羽国一宮とされ、南北朝時代の正平(しょうへい)13年(北朝の元号では延文(えんぶん)3年、1358年)、南朝の陸奥守 兼 鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)である北畠顕信(きたばたけ あきのぶ。北畠親房(ちかふさ)の次男)が南朝復興と出羽国静謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷(こいしごう)乙友村(おつともむら)を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」に記されている。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた。