石清水八幡宮 歴史
貞観(じょうがん)元年(859年)に南都大安寺(だいあんじ)の僧・行教(ぎょうきょう。空海の弟子)が豊前国、宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和(せいわ)天皇が社殿を造営したのが創建とされる。「石清水」の社名は、男山に既に鎮座していた石清水山寺(いわしみずさんじ。現・摂社石清水社(いわしみずしゃ))からとも、男山の中腹から湧き出ている"石清水"からともされる。
天慶(てんぎょう/てんけい/てんきょう)2年(939年)、伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得る。皇室・朝廷からは、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び二所宗廟の1つに数えられる。また清和源氏の足利市・徳川氏・今川氏・武田氏などの源氏諸氏族から氏神として崇敬されたため、武神・弓矢の神・必勝の神とされた。これら源氏によって、当社の分霊は源頼義(みなもとの よりよし)による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮など、数多くの八幡宮に勧請された。
幕末までは神仏習合の宮寺(ぐうじ。神宮寺)として「石清水八幡宮護国寺」と称し、東寺(教王護国寺)・清水寺・比叡山延暦寺・仁和寺(にんなじ)・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・相国寺(しょうこくじ)・大安寺(だいあんじ)など多くの寺院と深い関係を持った。また伊勢平氏も当社を重んじ、平正盛(まさもり)の造営の功や平清盛ら伊勢平氏の臨時祭での演舞が知られる。江戸時代まで護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる宿坊が参道に軒を連ねたといい、寛永の三筆である松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)も当社に仕える社僧であったことが知られる。
慶応(けいおう)4年(明治元年・1868年)3月12日に明治政府の神仏分離により、神号を「八幡大菩薩」から「八幡大神」と改めた。1871年に近代社格制度において官幣大社に列する。1883年(明治16年)には、勅祭社となった。
社号は、1869年(明治2年)8月に「男山八幡宮」に改称したが、1918年(大正7年)1月に「石清水八幡宮」へ復し、現在に至っている。
2012年(平成24年)、国の史跡に指定された。