国家神道 主な政策及び制度 神社合祀政策
· 江戸時代、会津藩や岡山藩、水戸藩、長州藩、津和野(つわの)藩では、批判論が出るなどの議論が続く中で、小祠(しょうし)や淫祠(いんし)の廃止・統合がおこなわれていた。このうち、水戸藩の神社合祀政策を特に「八幡改め」(はちまんあらため)と称した。これは旧支配者佐竹(さたけ)氏が尊崇した八幡神社を破壊し、みずから崇拝する鹿島神宮に置き換える運動である。
· 明治になると、神祇官は神社の調査が済むまで神社の整理をおこなわない方針をとった。
· 1876年以降、教部省はこの方針を変更して無各社や仏堂の整理を開始した。
· 1906年(明治39年)12月、一町村一社を原則に統廃合をおこなうとする「神社合祀令」が出された。同年以来、内務省は数年間かけて神社の整理事業をおこなった。神社整理というと一般にはこの頃の事業を指す。合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の一以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。
事業の目的は荒廃した小祠や淫祠を廃止・統合して国家の祭祀として神社の尊厳を高めることにあった。また、地方行政の合理化という側面もあった。
一方で、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出された。民俗学者・博物学者の南方熊楠は『日本及日本人』(にほんおよびにほんじん)などで10年間にわたって反対運動をおこなった。
広大な面積の鎮守の森を失ったことも弊害の一つだったといえる。そのため、神社が保有する森林を材木として財源にする狙いもあったといわれるようになる。