神武東征 解説 否定説

 


神武天皇を非実在とし、その東征を史実と認めない思潮は、津田左右吉(つだ そうきち)以来文献史学の主流を占めている。考古学的研究者からも強固な支持を受け、定説の位置にあるといえる。

 



· 西谷正(にしたに ただし)は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓(しせきぼ)など)は近畿には普及していないなど。

 


· 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い。

 


· 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は考えにくい(山中鹿次。やまなか しかつぐ)。よって、応神期に東征があったとも捉え難い。

 


· 原島礼二(はらしま れいじ)は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成されたとする。本来は隼人(はやと)の説話だったのを天皇家が取り入れたとも。