ヤマトタケル 考証 草薙剣

 

 


記紀


日本武尊が帯びた剣は、草薙剣くさなぎのつるぎ。草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

 

 


働き


草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣(とつかのつるぎ)の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。平家物語においては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされている。また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される。

 

 


神社


尾張のミヤズヒメの元に遺された草薙剣は、この後、熱田神宮(あつたじんぐう)にて祀られた。『熱田太神宮縁起』(あつただいじんぐうえんぎ)によると、日本武尊の死後、ミヤズヒメが衆人と図って社を建て、神剣を奉納したという。天智(てんじ)7年(668年)僧・道行(どうぎょう)に盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再び熱田神宮に祀られることになった。熱田神宮にはこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ「酔笑人神事」(えようどしんじ)がある。