明治末期の神社合祀 合祀反対運動

 


氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。



とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠(みなかた くまぐす)ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した。こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年(明治43年以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。