神宮教 教派神道としての独立


1882年(明治15年)の「明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号」によって祭祀を司る神官と、布教を行う教導職との兼補を廃止される。この直後に神宮司庁(じんぐうしちょう)と神宮教院を分離したが、この神宮教院が神道神宮派という教派神道の一派となった。浦田が1877年(明治10年)に退任したあと教化に努めた田中頼庸(たなか よりつね)が初代官長に就任する。10月5日には、教派神道の各派が派名で独立していたが、分派ではないとしてそれぞれ教団名にした。



1882年(明治15年)、神宮大麻(じんぐうたいま)神宮暦(じんぐうれき)の製造と頒布は、神宮教院への委託と取り決めたが、翌年、製造は神宮司庁が担うと改め、神宮教院は頒布を担った。