八瀬童子 延暦寺との境界争い
比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。永禄(えいろく)12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状(あんどじょう)を与え、慶長(けいちょう)8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成(ごようぜい)天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している。
延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁(こうべん)法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。これに対し八瀬郷は再三にわたり復活を願い出るが認められず、宝永(ほうえい)4年(1707年)になってようやく老中 秋元喬知(あきもと たかとも)が裁定を下し、延暦寺の寺領を他に移し旧寺領・村地を禁裏(きんり)領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社(あきもとじんじゃ)を建立し徳をたたえる祭礼を行った。この祭礼は「赦免地踊」(しゃめんちおどり)と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている(毎年10月の第2日曜日)。