五輪塔 歴史 ①


五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。大日経(だいにちきょう)の解釈書である「大日経疏」(だいにちきょうしょ)や善無畏「尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀」(そんしょうぶっちょうしゅうゆがほうぎき)などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝殊型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。



また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺(だいごじ)円光院(えんこういん)の石櫃には応徳(おうとく)二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元(ほうげん)二年(1157年)銘)や岩手県平泉町中尊寺(ちゅうそんじ)願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安(にんなん、にんあん)四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(なかおうかおうとう。嘉応(かおう)二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安(ほうあん)3年(1122年)創建の法勝寺(ほっしょうじ)の例が挙げられる。また天養(てんよう)元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」(ごくらくじ)の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県姫路市香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では兵庫県 徳照寺(とくしょうじ)の梵鐘(長寛(ちょうかん)二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の平家納経(へいけのうきょう)の箱蓋に描かれたものや平安末期~鎌倉初期に描かれた餓鬼草紙(がきそうし)が古い例として知られている。木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作の真如苑(しんにょえん)阿弥陀如来坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。