多宝塔形式の起源


初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔は日本独自の形式であり、平安時代初期に空海高野山に建立を計画していた毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)にその原型が求められる。この塔は空海の没後に完成し、その後も何度か焼失と倒壊を繰り返して、現在高野山にある塔(大塔または根本大塔と呼ばれる)は昭和12年(1937年)に再建された鉄筋コンクリート造のものである。この塔の創建時の形態は、現在の多宝塔に近いものであったと考証されている。



空海とともに平安時代初期の仏教界で活動した最澄は法華経千部を安置する塔を日本各地の6か所に建立することを計画した。これは現在で言う多宝塔とは異なり、初重・二重ともに平面方形の二重塔であった。現在、比叡山延暦寺にある法華総持院東塔は1980年に建立されたものだが、初重・二重とも方形の形式を保っている。

この形式の二重塔で近世以前にさかのぼるものはきわめて少なく、徳島県の切幡寺(きりはたじ)塔婆はその貴重な遺例である。この切幡寺塔は、もとは大阪の住吉大社(すみよしたいしゃ)の神宮寺にあり、元和4年(1618年)に建てられたものだが、明治時代初期に現在地に移建されている。