浄土宗 歴史 ③
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町(おおぎまち)親王より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣(こうえ)付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」。きはりんじ)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照(そんしょう)と増上寺の存応(ぞんのう)は、家康の崇敬を受けた。元和(げんな)元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。
江戸幕府が倒壊したあと、廃仏毀釈の混乱のなかから養鸕徹定(うがい てつじょう)・福田行誡(ふくだ ぎょうかい)らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を中心とした黒谷浄土宗(くろだにじょうどしゅう)、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、1961年の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、1977年に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。
一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺。あおうこうみょうじ)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺。ぜんりんじ)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺。せいがんじ)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院。いっしんいん)の勢力も存在する。