ダライ・ラマ 歴史
ダライ・ラマの権威の成長
ダライ・ラマの名跡は、ゲルク派の宗祖ツォンカパの高弟ゲンドゥンドゥプを初代とし、代替わりが進むにつれ、ラサ三大寺のセラ・デプン・両寺の座主職を兼任するようになるなど、ゲルク派内の地位を高めていった。また、同派のモンゴル布教の最前線に立ち、1578年第三世スーナム・ギャツォが当時のモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンとチョ・ユン関係(施主・福田)を築くなど、モンゴルに対する大きな影響力をも持つようになった。
1636年、後金の王ホンタイジが、ボルジギン氏(チンギス・ハーンの子孫)ではないにもかかわらず大ハーンの地位に即位(即位と同時に国号を大清(だいしん)と変更)するという事態が起きたとき、ハルハとオイラトの諸部は友好使節団を派遣して愛新覚羅(あいしんかくら・アイシンギョロ)氏による「大ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。
ホシュート部の指導者グーシ・ハーンは、清朝に使節団を派遣した1637年よりチベットの征服に着手、オイラト軍を率いて1642年までに中央チベット・アムド・カムなどチベットの大部分を制圧した。グーシ・ハーンはアムドをホシュート部の直轄地とし、中央チベット全域をダライ・ラマに寄進して広大なダライ・ラマ領とした。これをもってダライ・ラマを頂点とする政権が中央チベットに樹立されることになった。その後グーシ・ハーンも初代摂政スーナム・チュンペルも相次いで亡くなったため、ダライ・ラマ5世は着々と自らの権力を固めることができ、かれをチベットの最高権威として擁立せしめたモンゴル人たちの宗主権は有名無実と化した。また、当初ダライ・ラマ政権は中央チベットのみに支配を及ぼしていたが、後にその支配地域を拡大していくことになる。こうして名実ともにダライ・ラマ5世がチベットの支配者となったとされる。
ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。ダライ・ラマの名跡は、それまでの「ゲルク派の有力名跡」という宗教的権威のみならず、チベットで最も肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握するのに加え、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的・世俗的な権威と権限をチベットにおける支配地域で行使するという、聖俗両権を一身にまとう地位となった。