富士講(ふじこう)



富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう)


1 富士山とそこに住まう神への信仰を行うための講社(こうしゃ)である。広義の富士講。

2 特に江戸を中心とした関東で流行した、角行(かくぎょう)の系譜を組むものをいう。講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多い。狭義の富士講。通常はこちらをいう。






歴史

狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴ひとあな。静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏(かくぎょう とうぶつ)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期以降、村上光清(むらかみ こうせい)食行身禄(じきぎょう みろく)によって発展した。

その経緯から、角行修行の地である人穴は聖地と考えられるようになり、碑塔の建立が相次いだ。それが現在約230基見られる碑塔群である。この他隣接する人穴浅間神社は主祭神を角行としており、それらは現在 人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)として知られている。

このように、富士講信者は記念などの意味から記念碑を奉納する文化が存在し、その記念碑を「富士講碑」という。この富士講碑の特徴として「笠印」というマークが刻まれている点が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある。またこのように多くの講社が存在していたことも富士講の特徴であり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。



身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定(にゅうじょう)したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。一般に地域社会や村落共同体の代参講(だいさんこう)としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師(おし/おんし)の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田北口本宮富士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。



明治以後、富士講の一派不二道(ふじどう)による実行教(じっこうきょう)、苦行者だった伊藤六郎兵衛(いとう ろくろべえ)による丸山教(まるやまきょう)、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半(ししの なかば)による扶桑教(ふそうきょう)など、その一部が教派神道と化した。また、明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない。平成18年現在、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。