無上瑜伽タントラ 成立経緯



仏教は、そもそもインド征服集団であるアーリヤ人が持ち込んだヴェーダを奉じる、司祭階級バラモンを中心としたいわゆるバラモン教に対するカウンターの1つとして、クシャトリヤ階級の自由思想家の一人であるゴータマ(釈迦)によって興された宗教であり、両者は(類似部分も多いものの)潜在的な対立関係にあった。




仏教教団はマウリア朝からクシャーナ朝にかけて、国家の庇護を受け、隆盛を誇る。その文化は続くグプタ朝においても花開くが、一方で、この頃形としてまとまった『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などをテコに、民間伝承を取り込んだ庶民的な宗教として生まれ変わったバラモン教、すなわちヒンドゥー教が、台頭してくることになる。こうして出家者中心の理論的・瞑想的な仏教が一般庶民の求心力を失っていくのとは対照的に、ヒンドゥー教が勢力を広げることになり、かつての関係・立場は逆転する。



この状況に危機感を募らせた仏教側のリアクションとして、5世紀頃から登場したのが、ヒンドゥー教的要素を積極的に取り込み、壮大な神々の体系(曼荼羅)と儀礼、呪術、超能力、動的な身体・象徴操作、現世利益などを備えた、いわゆる密教である。



その体系は徐々にまとめられ、7世紀に『大日経』『金剛頂経』が成立するに至り、一応の完成を見る。これが日本にも真言宗として伝わっている中期密教(純密)である。



しかし、インド仏教界は、ここには飽き足らず、更なるヒンドゥー教への対抗、庶民に対する訴求力・求心力の維持・強化、そして仏(世界)との合一手段探求・強化の一手として、「性」と「チャクラ」(詰まるところ、「クンダリニー・ヨガ」(及び「シャクティ信仰」))に、より一層深く踏み込んでいくことになる。こうして生み出されたのが、後に無上瑜伽タントラと総称されることになる後期密教経典群である。



大幻化網タントラ』が登場したのを皮切りに、8世紀後半には「ブッダは一切の如来達の身・語・心の源泉たる、諸々の金剛女陰に住したもうた」という衝撃的な文言から始まる『秘密集会(しゅうえ)タントラ』が成立し、11世紀の『時輪(じりん)タントラ』に至るまで、様々な経典が作られ、それに基づいて「性的ヨーガ」が実践されてきた。性行為は、初期仏教以来の戒律と真っ向から衝突するため、僧院においてはあくまでも観想として、身体・思考操作を駆使してその状態を再現するという解釈・試行がなされることもあった。しかし、最終的な解決をみないまま、12世紀末から13世紀初頭にかけて、イスラーム王朝であるゴール朝の北インド侵攻によって、ナーランダー大僧院ヴィクラマシーラ大僧院といったインド仏教拠点が次々と破壊されて、インド仏教はその歴史を閉じることになり、その課題は、後継であるチベット仏教に残されることになる。