本地垂迹(ほんじすいじゃく)②


日本では、仏教公伝により、奈良時代の物部氏と蘇我氏の対立を見るまでもなく、相互には隔たりがあった。しかし次第にその隔たりがなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じであるとし、神を仏の境涯に引き上げようとして納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。


しかし7世紀後半の天武期において、天皇を中心とする国造りが整備されるに伴い、その氏神であった天照大神を頂点として、それら国造りに重用された神々が民族神へと高められ、仏教側からもその神々に敬意を表して格付けを上げるようになった。実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間であるという解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すまでに至った。民族神の代表格である八幡神が八幡大菩薩などはその典型的な例である。


しかしながら、代表的な神でない死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。これはたとえば、権化神(権社神)に対して、実類神(実社神)などがそうである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るというあらわれであったと考えられる。

この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。