お久しぶりの日記です。


気が付けば5月も中旬です。

ビックリですあせる

2011年3月11日以降から

自分がどこに向かっているのか不安を感じながら、

とりあえず動いてます得意げ


宮城に行って

実際に被災地を歩いて

自分の父親の仕事とか

自分が何ができるのかとか

何をすべきなのかとか・・・


ただ、 昔から考えるよりとりあえず行動してしまう。

動いているうちに何か見えてくるだろう~

みたいなノリでべーっだ!


で、考えずに動いていたら

東北のいくつかの漁港とつながったり、

仙台の企業の方と会えたり、

1人じゃできなかったことが、

色々な出会いから発展する。

本当に本当にありがたいなって思います。


そんな中で、

とりあえず形になった第1弾のイベントを開催しますアップ

今週末のイベントで急な話なんですが、

お暇な方はぜひぜひ遊びにいらしてください音譜


『買って食べて、応援しよう!in築地』

‐被災地支援・風評被害撲滅フェア‐

2011年5月22日(日)9時~13時

築地市場内築地内で行う東日本大震災を受けたイベント第1弾。

http://www.shijou.metro.tokyo.jp/press/23/5_10.html


築地場内に入ったことない!って方、

必見です(笑)

東北の漁港から漁師さんたちもいらっしゃいますうお座

銀座の割烹料理の板前さんが作る料理もオススメですおにぎり


何か不明な点がありましたらお気軽にご連絡くださいニコニコ



暗いことばかりじゃダメだ!!

笑う

ってすごく大切なことなんですよ音譜

友達に教えてもらった時、
腹を抱えて笑いました!!

明日からまた、一週間ひらめき電球
頑張っていこう!!
昨日、東京に戻ってきました。
宮城でも咲き始めた桜が
東京で満開だった。

戻ってきて
一緒に活動したメンバーと
夜通し話してた。

東京に帰ってメディアに触れた。
原発‥‥
レベル7になったんだ。
気がつけばテレビで
『安全』
という言葉を聞かなくなった。
危険だから近づかない。
危険だから避難する。
でも、
じゃあ、
そこで生活していた人は避難したところで
どうすればいいの?
そこにいなくても、
福島産のものを使って商売していた人は
どうすればいいの?

父親の仕事柄
どうしても考えてしまう。

今回のことで
どれだけの飲食店が店を閉めているのか。
風評被害で
千葉や茨城から上がる魚が
どれだけ築地に余ってるのか。



宮城にいる時には
気が付かなかった原発の問題。

そして、数日前に
降り立ち歩いた場所が
テレビで流れる。


最初、
活動は1週間を予定していた。

でも、
現状を見て帰る日を2日延ばし、
昨日、
帰ってきた。

色んなことがあり過ぎて
何から書いていいのか
わからないけど、
メディアでは見えないことを
少しでも伝えたいと思ってます。

前回のコメント
ありがとうございました。
1人、1人に
返事ができなくてゴメンなさい。


向こうで
震度6強の地震を体験しました。

気仙沼海岸付近で
津波警報を受け、
車で高台に逃げました。

余震が止まらず、
東京にいたら
感じずにいた恐怖を
感じました。

自分を心配している人がいることを
忘れているわけではありません。
両親やきょうだい、友達、
大切な人たちに
しなくてもいい心配をさせました。

ゴメンなさい。
ありがとう。


確かに
余震がまだまだある東北に来るのは
危険なことだと思うけど、
だからと言って
そこで生活している人を
忘れてはいけないと思う。
私は他の人に比べて
少しだけ
自由があった。
行きたくても行けない人がいる。
大切なことは
そこにいる人たちだから。


戻ってきた今、
自分が向こうで何が出来たのか
未だにわからない。

避難所は
その避難所ごとに本当に状況が違いました。

地震から
水も電気もガスもなく、
毎日、ゴハンやパンしかない
温かいものが食べれない避難所がある一方で
水、電気、ガスが回復し、
温かいものも食べれて
果物や野菜も充実してる避難所が
道、1本挟んで同時に存在する。

そこで気がついたことは
メディアの力。
メディアで流れた地域、
被害がひどいと報道された地域には
全国、世界各国から
直接、個人レベルで支援が来るんだと言うこと。


今回、
気仙沼の大島という船で20分ほどの
避難場所を訪れました。

忘れられた場所

情報が届かず
2000人ほどの人たちが
どんな暮らしをしているか
わからなかった。


実際、
大島の人たちは笑顔でした。
もちろん、
まだ電気しか通ってなく
水もガスもない。
家がなく
水産業を営む人が多い島民は
職を失った人も多い。

米軍が入り、
物資はだいたい揃っていたが
人の支援が全体的に不足していた。

私たちが行った
大島小学校では

気仙沼までは支援が来るが
大島には来ない

と、歓迎を受けた。


成果と呼んで良いかは、
これからだが、
大島に行って次につながるかも
と、思えることがあった。

私たちの活動が
現地の河北新報社に載りました。

http://kahoku.newsmart.jp/mobile/2011/04/412-43.php?uid=NULLGWDOCOMO&itd=007

これで、忘れられた大島を
少しでも色んな人に知ってもらえる。

私たちが
今までいたNPOをはずれ、
帰る予定を2日延ばしたのは
そのためでした。

次は東京に戻った今、
やれることを考えたい。