人の幸せを祈る



誰もが、愛する人に幸せになって欲しいって思うよね。



でも、

人の幸せは

その人によって全く違う。



それは、

価値観が違う




と言う

「人間レベル」でもそうだし


「魂が望むレベル」でも違う。





例えば

人間レベルの幸せという価値観で考えるなら




健康な身体

仲の良い人に囲まれ

自分の思いがどんどん叶っていって

何不自由なく過ごしていけること。



多くの人は

これを「幸せ」と呼びますよね。




でも、時として

この「幸せ」すら

私たちが考えている「幸せ」に感化されていると言うことなんです。




もぅ、この時点で


よく分からない


と、言うあなたは正常です笑笑



だって、私たちはその幸せが

イメージしやすいのだから。








でも、この視点を

180度回転させることも時には必要。





私事ですが

今日は、兄の所に行ってきました。



兄は、

身体が動かなく

しゃべれない

意思の疎通も出来ず

食事もできない




普通に考えると

「身体が動くようになると幸せ」

「食事ができるようになって欲しい。それが幸せ」



と思います。




でも、私はなぜか

一般的には

「出来ることが少ない」兄だけれども



「幸せだ」



と感じるのです。




これは、非言語コミニケーションのレベルになるし

私の感覚的な受け取り方になってしまうのですが





兄の顔はとても穏やかで

そして、何より


たくさんのヘルパーさんや先生

携わる人に

愛されている。




こんなに愛されている姿をみて

「不幸だ」

と言う気持ちにはなれないのです。





そして、不思議なのですが

ベットに横たわる兄を囲む人々には




兄を中心として出来ている

「絆」という「糸」が

ハッキリと見えたのです。



こんなに絆で結ばれている



その人生は

外から見たら


「身体が動かなくてかわいそう」





と思うかもしれないけれど

私にはやはり

「幸せ」に見えるのです。





これは、見る側の



「幸せの定義」を

壊していかないと見れないことなのかもしれません。



「一般的な頭で考える幸せ」を

追い続けていると

「かわいそう」しか見えないし

「なんとかしてあげよう」

「直してあげよう」



と言う思考に占拠されて

「身体が動けるようになる」に

執着し続けてしまいます。




本当に苦しいのは

「自分が愛する人の幸せを

自分の幸せにくくりつけ

相手が幸せに見えないことで

なんとかしようと思うこと」



なのかもしれません。




兄がまだ元気な時に

何かの新聞の記事に、自分の病気に対して

こんなことを書いてました。




「僕は、ずっと順風満帆な生活をしてきた。

普通に就職をして

結婚も決まっていた。


だけど発病し

結婚は破棄になり

会社も行けなくなった。


自由も失って

誰かいないと生活すら出来ない。



一般的には不幸だと思われるかもしれないけれど



僕は、発病して

人の優しさ、愛、思いと言う

目に見えない

大切なものに支えられていることに気づいた。



そして、みんな

僕を愛してくれている。




もし、今

僕が人生を初めからスタートするときに

神様に


「健康な身体と

病気の身体


どちらを選びますか?」



と聞かれたら



僕は迷わず


病気の身体を選ぶだろう。



何故なら、本当の幸せを知ることが出来たからだ。











この記事を読んだ時に

私の人生はひっくり返りました。




私が考えていた幸せと

兄が見たいる幸せは


全く違かったんだ


と。



でも、同時に救われました。




幸せで良かった

そして、きっと兄は

今もとびきりに幸せなんだと。



ヘルパーさんと散歩に行く兄






私たちは

愛する人の幸せを



勝手に押しつけてしまってるのかもしれない。



でも、

自分の考えや、一般論を手放した時



相手の

本当の姿が見えるのかもしれない。