樹木希林さん、病気は「賜りもの」 | 自然の力はプライスレス

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まりんとの生活っぷりなどなど。

3年前は私が倒れ、一昨年は上司が死に、去年は父や友達犬のバッシュが死に。。。
病気と闘いつつも元気に今を生きる人達と会う機会にも恵まれ、病気や死を見つめるには十分な期間が続いた。

なので、この記事を読んで、まったく共感しまくりました。

自分の死をちっとも予感出来ない方々にも読んで欲しいコラムです。

自然の力はプライスレス-樹木希林

---column---
●病気は「賜りもの」(上)

 平成16年夏あたりに胸にしこりがあるのに気付き、乳がんだなと思ったの。秋に都内の病院に検査に行き「がんでしょう」と聞くと、お医者さんも「がんですねえ」。

 そのとき、治療方法について話してもらったような気がするけれど、耳には入ってこなかったわ。動転していたわけではなく、なんだか具体的によく分からなかった。

 理解できない治療法について質問すればよかったんだろうけど、しつこく聞かれるのは嫌かな、という遠慮があってね。それで、切ることに決めたんです。手術の判断はちょっと早まってしまいました。

 手術を即決したのには、理由があって。15年に左目が網膜剥離(はくり)になって、お医者さんから「原因をつきとめるには、手術しかない」と言われたんだけど、検査のために手術をする必要はないと思って拒んだの。

 そうしたら週刊誌の記者さんが取材にきて「宗教上の理由で手術をしないんですか」なんて聞いてきたんです。そのときには否定したけれど「拝んで治すなんて思ってはいないんですよ」と、世間に訴えたかった気もあって。乳がんのときは、その反動で「切ります」なんて言っちゃったのよ(苦笑)。

 あの取材がなければ、即決はしなかったでしょうね。大変にアホなことで。

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 私の場合は、もっと、がんについて勉強してから、治療方法を決めても遅くはなかったの。手術をしないケースもあるし、放射線治療を選ぶという道もあったはず。ほかの病院で「セカンド・オピニオン」を聞いてもよかったんです。がんについて無知のまま17年1月に入院して、すぐに全摘出しちゃったの。

 手術直後には、報道関係者にばれて、マスコミの方が自宅にたくさん来て、家族が家に入れなくなって。だから病院からタクシーで自宅に戻って記者会見を開いて、すぐに病院へ戻りました。

 昼すぎに病院に見舞いに来た女友達が、テレビで放映されていた私の記者会見を見て驚いていたわよ。彼女は乳がんの経験者で、手術で、筋肉を切って大変だったらしい。私の場合は筋肉は切らなかったから、ポットでお茶も入れられたのよ。

 そういう意味では、手術は進歩しているんでしょう。でも、大変なのは手術後。再発を防ぐために、薬をもらうんですが、ホルモン剤は何種類もあって、自分で、自分にあう薬を決める。だから、がんに対する知識が必要になるんです。

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 お医者さんは自分の専門分野については詳しいけど、私の心身のすべてを知っているわけではない。だから、自分の体は自分で守らないと。そのためには自分の体の悲鳴を感じるしかない。

 性格は人とぶつかって、すぐに分かるけれど、自分の身体は結局、自分で理解するしかない。病気のたびに自分の体を知るのは大事なことだと思うわね。

 私は、乳がんになり、ホルモンのバランスが良くないことが分かりました。死ぬときに「納得がいかない」なんて思いたくないから、死を意識して、今を大事にするようにもなりました。遺言状を書いたり、6畳ほどの部屋いっぱいにあった本を売ったり。(米アカデミー賞にノミネートされた映画「おくりびと」で主演した)娘婿の本木雅弘さんには「死ぬときは自宅で死にたい」と伝えたわよ。本木さんは私の顔をまじまじと見つめて「それにしても樹木さんは死なないですね」だって。「大丈夫よ、そのうち死ぬから」と答えたわ(笑)。“おくりびと”もいるし、死ぬ覚悟はできてます。

 山あり谷ありのがんの道を体感しながら抜けていく。病気はただ治すだけではつまらないのよ。病気によって、いろんなよじれが見えてきて、人生が変わる。病気は「賜りもの」だと思っています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/health/223974/

●病気は「賜りもの」(下)

 乳がんの手術をする直前に内田裕也さんと向き合おうと思ったんです。

 裕也さんは昭和56年に、私に無断で区役所に離婚届を出しました。私が離婚無効の訴訟を起こし、裁判で争い、裁判官にまで「あんなに嫌がっているんだから、別れてあげなさいよ」なんて言われたことがあったんです(笑)。裁判で離婚は無効になり、籍は戻ったけど、裕也さんと連絡を取るのは1年に1回だけ。このまま裕也さんを恨んで死ぬのは悪いなと思って、ほったらかしにしていたことを謝ろうと思ったの。

 でも、男の人って、いろんな質(たち)があるけれど、別居している奥さんと面と向かって、しっかり話をするというのは苦手なんじゃないかな。まして夫なんて、カーッとして一生送っているという感じだから、2人だけでは話はできないと思ったの。

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 だから、知人に「謝りたいから、仲介して」とお願いして、食事の席を設けてもらったんです。でも、夫は1時間ぐらい、次から次へと違う話をして核心には触れさせてくれなかった。

 そのうち時間がなくなってきて、仲介者が時計を見始めたから「ちょっと私にしゃべらせて!」「謝らせてくれ!」と怒鳴ったわけ。首根っこをつかまえて謝るっていう感じだったわね。仲介者には「けんかごしで謝っている現場を初めて見た」と言われました(笑)。

 そのとき、裕也さんは何も言わなくて、そのまま、さようならって別れたんだけど、その後、別の知人が、飲食店で、ものすごく機嫌のいい裕也さんと会ったらしい。夫は何かを承知したんでしょうね。

 それから月に1度、裕也さんと会うようになって。長い夫婦の戦いは終わりました。元気なうちは分かりあえなかったけれど、お互いに病気して、体力がなくなっちゃったから通じあうようになったんだろうね。私は15年に網膜剥離(はくり)になって、裕也さんも同じころに目の病気を経験して。それから私が乳がんになって、お互いに“老老介護”が必要になったのね。

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 昨年の夏には「祇園祭に行ってみようか」「いいね」という話になって、一緒に宿泊したんです。目が悪いと危ないから、いつも腕を握っていました。偶然、そうなっちゃったのよ。熟年離婚なんて言葉も浸透してきちゃったけど、老いてから別れるのはもったいないわよ。

 乳がんの手術後、毎年1月には、裕也さんと一緒にハワイで過ごすようにもなりました。真珠湾では必ず手を合わせる。そこにも一緒に手をつないでいく。毎年、これが最後だなあって思いながらいくわけよ。そんなに先が長いとは思えない。その覚悟はあるから。

 私の出演した映画「歩いても 歩いても」について、裕也さんが感想を言ってくれたこともありました。「一般料金で映画館で見たぞ」だってさ。シニアの料金で見ればいいのにさ。そんなところで頑張るんだよね(笑)。「映画に登場するような会話がない夫婦にはなりたくねえな」と言っていたけど、でも、長年連れ添ったら顔を見なくても意思疎通ができるのは自然よね。うちは一緒に住んでいなくて、会うときは話があるから、いつも目を見てしゃべっているだけ。

 嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだんうれしい感情がわいてくる。だいたい私は仏頂面なので、「なあに」なんて言っただけでも、裕也さんに「怒ってんのか」と言われちゃう(笑)。そうならないようにね。

 死に向けて行う作業は、おわびですね。謝るのはお金がかからないから、ケチな私にピッタリなのよ。謝っちゃったら、すっきりするしね。がんはありがたい病気よ。周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。ひょっとしたら、この人は来年はいないかもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう。そういう意味で、がんは面白いんですよね。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/health/223969/