【改訂】定年欧州自転車旅行 目次

 

 

第四章 オランダ
首都:アムステルダム
言語:オランダ語
人口:1552万人 (1996)
国土:41,574平方km、日本の約1/9
人口密度:373人/平方km、日本の約1.1倍
 

☆日本には江戸時代より交易のある、西洋では最も古くからの交際国。医学や芸術だけでなく、オランダの誇る土木技術にも日本は大きく影響を受けている。現代の土木技術の集大成、直線距離27キロのアイセル湖締切堤を走り抜けること、そしてレンブラントとファン・ゴッホの絵を訪ねることが最大の目的である。

 

 

レーア⇒スネーク (Sneek) 70.8km
1998年7月11日(土) 曇時々小雨、猛烈な逆風   7月12日(日) 連泊滞在




 

 

国境を越えてオランダへ
 西進して国境線に向かう。大平野大農場地帯のど真ん中の国境線をまたしても見落とす。結局この後、ベルギー、ルクセンプルグ、独、仏、西、ポルトガル、西と陸続きの国境線を越えていくのであるがどこも通関事務所もないし、役人も立っていない。最後のモロッコだけは出入りが厳重であっただけ。
 今日もすごい西風、顔を上げては走れない。気が狂いそうになってくる。辛い思いでやっとスキームダ (Scheemda) の小街に着き、ひょっと見上げるとなんとYHがある。これは天の助け、お大師さんの御加護だと飛び込むと、待たせるだけ待たせて出てきた高年女性「今夜は満員お断り」と。エッ? ホント? こんな殺風景な小さな街で、人影が全く見えないというのに満員?! 腹が立ったが仕方がない。
 このあたりも東西南北、見渡す限りの大平野で地平線が見えるだけ。遠方にも山が見えぬ。そこに猛風が吹きまくるのだからたまらない。避難場所がない。
 このあたりから自分の頭が少しおかしくなってきているのではないかと気になり出す。先ほどのYHは幻想か? あの女性は幽霊だったのでは? ノイローゼにかかっている人は自意識があるのだろうか、ノイローゼにかかる前には予兆があるのだろうか、ノイローゼにはジワジワと連続的に陥っていくのか? それともある時突然にかかるのか? こんな逆風にいつまでも逆らって自転車旅行を続けていると本当に気が狂ってしまうのではないかと繰り返し繰り返し考えてしまう。そしてとうとう Hoogezand Sappemeerという小さな町にたどり着こうとした時、今日はこれで打ち切り、とおかしくなりかけた頭を振って決心する。その時、左手遠くに列車が走っているのが見える。またも天の助け、ヨシッ、鉄道に乗ろうと考える。線路めがけて走り、しばらく行くと無人駅につく。
 駅には中学生らしき少年2人が風上に背を向けて、寒いのか背を丸めて列車待ちしている。この強風下では地図は開けられないので近くの公衆電話ボックスに入る。ここで初めて意識の正常さを取り戻したように思う。
 ここよりYHのある最も近い街はフローニンゲン(Groningen)市。電話すると、ここもなぜか満員と断わられる。次のYHはスネーク? と迷っている所へ少年が走ってきて、
「列車が来た、西方面行きだ…」
 と手で方角を示す。慌てて荷物を片づけ走っていくと列車はすでに停まっていて運転手と車掌がプラットフォームに降りて少年から話を聞いている。     
 車掌が、
「どこへ行くのか? 西へ? 自転車はOKだ、ノープロブレム」
 とのことで取り敢えず乗る。車内で中掌から丁寧に説明を受けてスネークへのキップを買う。
 

母子のみの自転車旅行の3家族 雨対策も完全

定年欧州自転車旅行 1998.07.12(日) 10:20

 


 駅に着き恐る恐るYHに電話すると宿泊OKとの返事、ホッとする。静かな住宅街の周辺部に立つ。19時着。夕食はご馳走だ。今旅行初のスープ付き。大盛り焼き飯、味噌あえ、酢もの、野菜サラダ等、日本食風のご馳走か豊富に出て大食する。
 食後、アムステルダムより自転車旅行で来ている子供連れ3家族と話し合う。3家族とも母親と子供だけで、ダンナ抜きの自転車旅行。
 このうちの1家族は母親と先天性歩行障害の11歳の少女。少女は控え目であまりしゃべらずいつも人の話に耳を傾けてニコニコしている。習朝、この3家族が小雨の中、次のYHを目指して去っていく時に写真を撮り合って別れを惜しんだのであるが、母親が運転する自転車の前部には二輪の座席車が付いていてそこにこの少女が乗る。風雨からこの少女を護るためにビニールカバーが実に巧妙にとりつけられている。どう見ても俄か仕立ての細工ではない。
 2家族目は40歳前後の女教師風の母親とやはり11歳の少女。男勝りで多弁なこの母親は小生の稚拙英語をしばしば修正してくれる。例えば、彼女の熱弁中に彼女がアムステルダムをエィムステルタムと発音したので、言わなくてもいいのについ小声で「アムステルダム…」と口をはさんだものだからいけない。途端に彼女、ムッとして
「ノー!! アムステルダムはオランダ語だ。今は英語を話しているのだから英語発音のエィムステルダムでなければならぬ」
 とまたもお叱りを受ける。
 彼女は絵画にも関心が深いようで、
「オランダの誇るレンブラント、ゴッホも勿論いい。しかし現代のヴァレス・ティング(Walasse Ting)もすばらしく、是非彼の絵葉書を買って帰って欲しい」
 と言う。
 翌朝小雨の中、写真を撮って別れの挨拶をする。
「日本に来る機会があればお世話もするし案内もする」
「仕事の終わる61歳になったら訪間する」
「その頃には自分は死んでこの世にいない」
「写真を送ってくれる時にあの世のアドレスも書いておいて欲しい。そこへ尋ねて行く」
 帰国後図書館でヴァレス・ティングを人名録で調べたが「1929年生、現代画」のみ。彼女が言っていた、
「米で出来た紙の上 (on the rice paper)に絵を描くのでも有名…」
 うんぬんは見当たらぬ。rice paper? 初耳だが。アムステルダムで買った絵葉書の絵はゴッホ風の見事な金鶏であった。
 3家族目は45、6歳の母親とやはり11歳の男の子。2人とも寡黙にして語らず。ニコニコと聞き入るのみ。小生の折鶴に関心を示してくれる。
 

 

レーアのYH出発時

定年欧州自転車旅行 1998.07.11(土) 8:45 小雨

 

 

スキームダ (Scheemda)のYHを断られ、

強風下をフローニンゲン(Groningen)に向かう

定年欧州自転車旅行 1998.07.11(土) 14:20

 

 

1998.07.12(日) Sneek