ホルコンの科学!? 「パチンコにおけるマインド変革論」 第一話 「感謝の正体(19)」 | ホルコンマスターコウの虎視眈々

ホルコンの科学!? 「パチンコにおけるマインド変革論」 第一話 「感謝の正体(19)」


おはようございます


では、「ホルコンの科学!?」の続きです。


『仏教では、心の三毒である「貪・瞋・癡」、に「慢・疑・悪見を追加して、

人間を不幸にする六大
煩悩と言われています。』


慢心や自惚れは心の毒であり、怒りを引き寄せやすくなる。


その結果で、調和を乱したり、家庭内でも戦争の危機に瀕することがある。

そうした不幸から脱却をできるようになるために・・・


覚えてますか (*v.v)。


・・・ そんな話でした。

実は、慢心や自惚れの毒素の被害は他にもあるのですね。

方向性としては似たようなものなんですが、

大抵のケースでは「寛容性」が薄れる方向に向きます。

他人を認めなくなったり、許せなくなったりと、そうした方向です。


ん~ タイムリーな話題がSNS出ていましたので・・・


たぶん、この「慢心の毒」というものは、

人間の営みすべてに共通する毒素であると思います。

その出発点が、「自分 > 他人」になるっていることが多いですので、

例えば、自分が王様で、相手は奴隷小作民のような錯覚をしやすいです


第三者から見たらこっけいな話ですけど、現実にありえることです。

これは、何かの会社でも職場でもそうですね。


例えば、会社に長く勤務しているというだけで偉そうにしている人がいますけど、

その人の会社や顧客への貢献度を考察したときに、

新人社員のほうが会社や顧客に対して貢献することもあります。

上司はもらっている給料分も貢献していない・・・ いくらでもある話です。


そして、
社内の肩書きなどで偉そうにしている人がいたときに、

会社内での役割として
偉さと、人間性の偉さとはすれ違うことも多いのです。

これが、部下から慕われない上司の実情でもあります。


つまり、人間性としては別に偉くもなんともないのに、

すべての面において偉そうな態度をしているので見透かされるのですね。

テレビのドラマでもよくありますけど・・・

会社内では先輩や後輩、上司や部下というものはケジメとしても必要です。

しかし、アフター5や休日でもそれが通用するかと言えばそうでもない。

そんなことを議論と言いますか、口論するようなシーンを見たことがあります。


先輩や上司という者は、いつなんどき、いつまでもそうかと言えば違うのです。

常に偉いのか?・・・ そんなことはないですね。 

会社の役職でも追い抜かされることはありえます。

不祥事を起こして首になり、普通の人になることもあります

後輩や部下のほうが、会社や顧客に対して貢献することもあります。


つまり、今先輩や上司かもしれない・・・ それだけの事実です。

それを未来永劫、永遠にそうだと錯覚をして偉そうにしていますと

周囲の人たちと調和を維持できにくくなります。


ようは、どこかの会社や職場でもよいのですが、限られた空間において、

その会社や職場でのみ通用するような肩書きや役職をもって、

それが、人間性の偉さや偉大さと錯覚をする人がいるのですね。


例えば、Aという会社の課長は、Aという会社ではそこそこ偉いのかもしれない、

しかし、Bという会社では、その課長は何の価値もないかもしれない。

これが答えですね。

他の会社を範囲したら何の関係もないことです。

そう、その偉さや偉大さに「普遍性」がないのです。

「普遍性」が弱いことを、「普遍的に偉い」と思ったらダメなんです。


それは、何かの会社の社長でもそうです。

例えば、Aという会社の社長について、何の関係もないBという会社であれば、

こに勤務している社員のみなさんにとって、

会社Aの社長には何価値も偉さもありまん。


提携会社であるとか、取引先などであれば話も違うかもしれませんが、

何の関係もない会社であれば、ただの人です。

個人的に偉いと思うかどうかの話になりますね。



その会社は社長の器以上に発展することはない。


HSグループでの経営理念のひとつです。

会社は売込み的な能力や処理的な能力の高い人の立場を上げようとします。

売り上げを上げるか、クレーム処理に長けている人ですね。

或いは、新しい発想で商品の開発ができる人や、

コストパフォーマンスを下げれる人・・・ 会社の利益になること様々です。

しかし、そこで人間性が薄い、人徳性が弱い人を持ち上げると失敗します。

部下から慕われない上司を誕生させても、結果的に歯車上手に回せません。


それは、過去のカオスでもありました。

例えば、「厳しさ」と「寛容性」は対極にあることがあります。

その両者に、メリットとデメリットがあります。

「厳しさ」の性質が極端になって、その反作用が一定の被害を超えましたので、

しょうがなくでも調整をしなければならない・・・ そうしたこともありました。

個人の偏見と差別感が組織では通用しないことがあるのです。


或いは、「自分を中心に世界が周っている」・・・ そうした人もいました。

別に、それでもいいのですが、

それならそれで、世の中の中心に相応しい仕事をしないとダメですね。

自己顕示欲と言いますか・・・ 謙虚さの弱い人は人様のお手本にはならない。

そう考えてしまう私は・・・


どちらに転んでも、私は傷だらけです。

しかし、よりよい道を選択しなければなりません。

結果的に、より多くの人に慕われる人材を選択したのだと、そう実感しています。

かつて友であった者と縁を切るというのは、本当に辛いことです。

しかし、永遠に縁が切れるわけではない、そう信じています。


その会社は社長の器以上に発展することはない。


カオスは会社ではないですけど、この言葉は本当にに染みます。

握一点、開無限」という言葉もあります。

「握りしめたら未来が閉ざされ、開けば無限の未来がある」

それを拳(こぶし)や掌(てのひら)に喩えた話です。

私も歳を取って、遅ればせながらそれを実感しているところです。


「友達であるという観点」

「より多くのみなさんに貢献できる人材という観点」

どちらからを選択しなければならないと迫られたときに・・・

もう、頭がはげるくらいの苦悩があります。

しかし、そうやって選択をして行かねばならないのかと

どこで、掌を開くか・・・ 本当に難しいことです。


さて、余談でした。

今回は、人間性としては別に偉くもないのに、

会社などでの肩書きに便乗して偉そうにしている痛い上司の話でしたけど、

ようは、どのような立場におかれても「謙虚さ」が「美徳」や「人徳」になる、

そうしたことをお伝えしたかったんですね。

結果的に、人が追いかけるのは、その人の「人徳」です。

歴史に偉人として残るのも、そうした人たちです。


偉そうにしたい気持ちはわかりますし、

それくらいしか自己表現ができないのかもしれない。

しかし、人間の本当の偉さというものは、他人が評価するものである。

私はそう思うのです。

自分で自分が偉いと言っている時点で、その人は小者かもしれない。

そうした価値判断ができる人が増えているのではないでしょうか。


以上、今回は、一方向での人間の見方でした。

一言で、「偉そうな人間は嫌われる」・・・ そうした内容でした。

次回は、トンボのような複眼的視点からの人間洞察をしたいと思います。

上司と部下の関係・・・ けっこう人気があるみたいですね。


マスターは仕事をしなくても、虎視眈々と見ていますよw


では、ありがとうございました