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 タイトルに直接関与する部分の記述より、日本経済の本質的な強さに言及している部分の記述の方が圧倒的に面白い。日下公人さんと同様に、日本アニメ文化の経済に与えるインパクトを高く評価している識者の一人であるし、日本の製造業の本質的な強さも知っている識者の一人でもある。2006年初版。

 

 

【日本の金型製造業の強さ】
 国際金型協会の国別生産額の順位表(2002年統計)が掲載 (p.22) されている。日本は2位のアメリカの3倍と、ダントツ1位である。
 アジアの「昇り竜諸国」で一番生産量が多いのは台湾だが、日本の10分の1以下しかつくっていない。・・・(中略)・・・韓国となると、日本のたった100分の1にもみたないお粗末な生産高だ。
 ここで、東アジアのうちで日本に次に金型生産額が高いのは台湾だという事実は、決して偶然ではないと思う。台湾は、東アジア諸国のなかでは珍しく、日本統治時代の文化遺産を全面否定しなかった国だからだ。 (p.29-30)
 金型は製造業の基礎となる産業である。韓国は家電製品などに関して海外で大きな売り上げをあげてはいるけれど、製造業の脆弱さは、この統計表に如実に現れている。
 日本の文化遺産を全面否定した韓国人は、本質的に物作り国家としてやって行ける民族的気質をもっていない。既に仕様が固まり、日本の製造業が時流遅れと判断した技術を買い取って、世界に向けて大量生産するしかないのである。

 

 

【モラル水準】
 アメリカの流通過程では、なんと、出荷された商品の約30%が実際に消費者に販売されるまでのあいだに消滅してしまうらしい。 (p.57)
 にわかには信じがたい数値であるけれど、商品一つ一つに追跡調査のできるICタグが、アメリカにおいてあっという間に広まったという事実は、盗品率の高さを裏づけているらしい。
 世界各国の実態は、おそらくアメリカ並みなのだろう。盗品発生率は、その社会の階級差の存在に依存しているからである。日本ほど階級差のない国は、世界に一つとして存在していない。
 しかし、日本も製造現場において、経営者と労働者が画然とした階級差をもって運営されていた時は、欠品(盗品)が多く生じていたという内容は、下記リンクに書かれていた。今日の日本社会のモラル低下は、道徳教育の不在とともに、所得格差の事実が引きおこしているのだろう。

   《参照》  『「質の経済」が始まった』 日下公人 (PHP研究所)

            【モラル:そのポイント】

 

 

【工業等制限法 と 工場等制限法 の撤廃】
 1959年制定の工業等制限法、1964年制定の工場等制限法というのがあったのだという。前者は東京湾沿いの工業地帯、後者は大阪湾沿いの工業地帯への工場の集中を抑止する法律だったそうである。
 この悪法が2002年7月に撤廃され、それ以来、大阪湾沿いの尼崎市から堺市あたりにかけては、工場着工がもの凄い勢いで伸びている。 (p.99) と (p.162)
 この悪法は、当初、公害問題回避という重要な視点が必ずやあったはずである。しかし、今日の日本は、世界一のエコ技術をもつ国である。そして、中間資材運搬という動線短縮に関わるコスト削減が、企業の生産効率を高めるがゆえに、中国で生産する必要もなくなり産業の空洞化を防ぎ、国内生産によって国際競争力を高めることに寄与するだろう。
 クラスター化(粒度組成の良い=さまざまな産業が揃っている)され新たに構築された工業集積地は、日本の心臓部となって日本の経済を牽引するのだろう。
 橋下知事による公務員の意識改革と無駄の排除は是非とも必要ではあるが、それほど悲観的にならずとも、日本経済の復興とともに、大阪府の財政を再建できる可能性はある。
 しかし、これら制限法の撤廃によって、都市化は再度加速する方向付けがはっきりしている。地方の剥落を防ぐために、零細建設業と人手不足の農村をタイアップさせる妙案は、未だ耳にしたことがない。
 休耕地を多く抱える地方自治体は、農地保全課ないし環境保全課で小型トラクターを所有し、農業に興味ある若者の採用(ないし期間採用)を増やして、休耕地を耕し、地域を活性化させる作物栽培をしたらどうだろうか。役所は生産活動をする処ではない、という概念は捨てるべきだろう。少なくとも役所の人員の3割ほどは、実質的に単なるタックス・イーターだろう。各課に余っている無駄飯喰らいを農地保全のために有意に働かせればいいのである。それこそが公僕たる者の最低限の任務(義務)だろう。

 

 

【 「性弱説」 で観る日本の若者たち】
 東京ガス都市生活研究所長だった西山晴彦は、日本の若者をどう捉えるかについて卓見を持っている。つまり、「性善説や性悪説ではなく、性弱説で見ないと今の若者の心理を理解することはできない」 と言うのだ。 (p.135)
 とくに人類の進化が 「人から超人へ」 の変化を示すと思っているようなエリート主義者たちは、「こんなひ弱な若者ばかりで構成された日本の将来はお先まっくらだ」 と思っているのではないだろうか。 (p.136)
 なるほど、ひ弱に見えるのは事実だろう。性弱説という表現は実に相応しい。しかし、そもそもからして、日本の子どもたちは、バットマンやスパイダーマンやスーパーマンのようなたった一人のエリートが社会を救うというような幻想を持ってはいない。これが実は、日本社会の特質であり強みなのである。
 このような、ひとりのヒーローに依存して全能感を抱かせるようなストーリーを配給するアメリカ社会は、その実態がエリート社会=階級社会=格差社会であることを示している。
 ゲームの主人公たちが対戦するときに、アメリカン・コミックだったらたったひとりのヒーローが突出して強いから非常にストーリーを作りにくい。けれども、何人かの強いところもあれば弱いところもある主人公たちが絡み合うようなヒーロー群像を形成している日本マンガ・アニメからはゲームが作りやすい。それが今の日本のゲーム産業を支えている。 (p.170)
 様々なヒーロー群像が支えているのはゲーム産業だけではない。日本の産業を支えてきた多くの企業は、たった一人のヒーローに依存することなく、強弱の性をそれぞれに持つ人間集団全体の特性を活かして存続してきたはずである。
 より広範な意味で “全体最適” という社会的責任を最もよく果たしてきた日本企業による “日本的経営の骨子” はこれである。
 金融関連コメンテーターの発言内容に見え隠れする 「欧米型エリート意識」 には要注意である。
 
<了>