以前から思っていたことであるが、何かや誰かを好きになるということはある意味非合理なことのように感じる。筆者(不器用貧乏)には贔屓のボクサーが何人かいていつも試合の情報やコンディションなどをチェックしているが、好きなボクサーの為に外食で結構なものを食べられるのに、それを我慢して贔屓のボクサーのチケット代に換金する。ある意味かなりの愛情がないとやれないことではないかと感じる。

同じことがJリーグのコアサポーターにも共通する。ある人が言っていたが「サッカーって選手は当然出場しなければいけないけれど、サポーターってアウェイの競技場に行かなかったら殺される。という訳ではないのに毎回会場に行っているではないですか。あれって相当心が強くないとできないと思うんです。」というがサッカーでも格闘技でもある意味非合理で尚且つ愛情が無いとスポーツのファンはできないと筆者(不器用貧乏)は感じる。

愛情を非合理と言ってしまうのは心が苦しいが男女間でも「なぜあの人がいいの?」と言われても説明できないように愛情の非合理性は言語化しづらいものがある。ただ一つ言えるのは日本の文化というのは愛情の言語化しづらい非合理性によって成り立っているのである。

明日(2013年8月22日)のブログは休む可能性大です。ご了承下さい。不器用貧乏