白いカーテンが揺らいでいた。隙間からは、吸い込まれてしまいそうなほどに深い青空が覗いている。日は南の空高くから病室を照らしていた。涼介は大きな大きなあくびをして体を起こした。眠ろう眠ろうと努力している夜にはまんじりもできないのに、起きていたい朝には眠ってしまう。本当に嫌になる。このままだとまた夜に眠れなくなって、朝に寝る昼夜逆転生活になってしまいそうだ。今夜は意地でも寝てやろう。がりがりと頭を掻き回した。細かいフケが飛び散って、ふわふわと布団の上に落ちる。爪の間に詰まった皮脂をほじって、ふっと飛ばした。
 懐かしい夢を見たものだ。かなり長い間眠っていた気がしたが、夢の世界と現実の世界は時間の流れが違うのか、涼介の予想に反して時計の短針は10時を指している。まる1日たった訳でもない。日めくりカレンダーは元旦のままだ。ふわあと大あくび。2度寝した後は頭がぼやぼやしていていけない。睡眠時間が足りていないからなおさらぼやぼやする。コツコツと頭蓋を叩いてみても、からっぽな音が頭に響くばかりで靄は晴れない。そのうち重い瞼がするする下がってきて視界が暗くなり、睡魔が甘美な囁きで再び夢の世界へと導かんとしている。ああ、いけないいけない。ぶるぶると顔を振る。そのせいで寝不足の頭がぐわんぐわん揺れて、かえって気分が悪くなってきた。
(便所行こう)
 スリッパを突っかけて、ベッドから降りる。すっかりよくなったらしく、むしろこの2日間寝ていたせいで体が鈍ってしまったようだ。節々が固まっている。ぐうっと伸びをするとばきばきと関節が鳴り、筋肉が引き攣って痛かった。廊下に出ようと扉に手をかけると、なんとまあいいタイミングだろう。コンコンとノックの音。看護師だろうと思って「はあい」と涼介が気の抜けた返事をすると、
「こんにちは。僕です」
 と男の声が返ってきた。はたと気づいて、涼介は慌ててベッドへ戻った。惣次郎の声だったのである。
 しゃちほこばってベッドに座っている涼介を見て、惣次郎は小さく吹き出した。
「そんな硬くならなくても」
「そうですか」
 途端にふにゃりとなって涼介も笑った。惣次郎は、涼介が今入院している椿病院に勤めている。涼介が入院したときに処置したのも彼だ。
「いかがですか」
「うん、もう大丈夫」
 惣次郎は眼鏡を直して、涼介の左手にそっと触れる。確認するように目配せして、彼の腕からギプスを外した。するとどうだ、あれだけ腫れていた腕が平生の細さに戻っているのだ。青痣すら、きれいに消えている。
「なるほど、やはりそうでしたか」
 惣次郎が顔を曇らせた。涼介も自分の腕を見た。自分の、きれいな腕を。長いこと苦痛に苛まれずに済むのはありがたいが、どうも不気味だ。そして、この事実がとうとう惣次郎にまで知られてしまった。以前、ゴリラのワンダラーとの戦闘で負傷したときに診てもらったことはあったが、あのときはまだ今ほど回復が早くはなかったため、もしかしたら気づかれていなかったかもしれない。しかし、今は判然としている。それに、これだけ早いとたとえ医者でなくとも、おかしいことくらいだれでも分かる。
「惣次郎さん、オレ、どうしちゃったのかな……」
 思わず弱音が口から毀れた。惣次郎は口を噤み、小さくかぶりを振った。
「僕にも……残念ながら……」
「そっか……。そうだよね。医者って言っても、こんなの分かるわけないよね……」
 泣き笑いで、涼介は言った。落胆を覚えたのである。そして、医者である惣次郎に勝手にささやかな期待を無意識にした自分に若干の嫌悪感も抱いた。なにをがっかりすることがあるのだ。なにを甘えようとしているのだ。分かり切っていたことではないか。
 惣次郎は慌てて顔を上げると、真摯な響きの籠った声で
「違う!」
 と叫んだ。涼介がびっくりして目を見張ると、惣次郎自身も驚いたように自分の口を押えて目をおどおどとさせ、小さく「違うのです」と歯切れ悪く呟いた。
「惣次郎さん?」
 涼介がきょとんとしていると、惣次郎は「失礼」と短く言い眼鏡を外して、目頭を押さえながら長い溜息をついた。狭い肩は小刻みに揺れている。ようやっと面を上げると、レンズの向こうの瞳は穏やかな色を取り戻していた。しかし、それは無理やり平生通りの色に塗りたくったように不自然なものであった。
「すみません。原因はたしかに、分かりません。ですが、約束します。かならず君の体を治してみせます。貢に誓って……」
 声には誠実な響きがあった。それでも、誠実さの裏に押し殺したなにかを感じさせるような声。涼介はじっと惣次郎の瞳を見つめた。ああ、この人もだ。この人も、同じなのだ。
「これからは定期的に僕のところに来てください。かならず、かならず君の力になります」
「うん。ありがとう。惣次郎さん」

 惣次郎は病室を出るとぐったりと壁に凭れて前髪を掻き上げ、大きな息を吐いた。ああ、まただ。彼はこみ上げる自己嫌悪に苛まれた。いつまでも欺けるものではない。いつまでも真実を告げずにいるのはよくない。今こそ絶好の機会だったというのに。なぜ言えずに終えたのだ。愚かな、臆病者、小心者め。そう罵る声が彼の頭を、心を駆け抜けた。いいや、今はまだその時期ではない。今は、まだ。これでよかったのだ。自分を悪罵する声を遮り暗示をかけるように心のうちで何度も繰り返し、責めるように脈を打ちならす心臓を鎮めようと試みた。そうしているうち、だんだんと落ち着いてきて彼は血の気の引いた唇を噛みしめ、うんと確認するように頷いた。そうして顔を上げると、いつのまに来たのか、見舞いの品を持った慧が翠の双眸を眇めて彼を見ていた。
「ああ、慧」
「どこまで話した」
 慧は低く、早口で言った。惣次郎はちらりと病室の扉を顧みて廊下を歩きだした。慧も早足でそれに続く。
「なにも。原因は分からないが必ずその体を治すために尽力するとだけ伝えました」
「またそうやって誤魔化したのか」
 吐き捨てるように言った。惣次郎は答えなかった。人気のない階段を、木佐貫父子はしばらく無言で上がっていった。屋上へ出るドアの取手に惣次郎が手をかけたとき、慧は再度冷たい怒りを込めて言った。
「あなたはいつだってそうだ。そうして涼介を、貢さんを誤魔化してきた。大切なことはなに1つ教えやしない。嘘をついて、隠して、あのひとたちをいいように使ってきた」
 頭がずきずきと痛む。惣次郎ははあっと深く息を吐いた。心臓の鼓動が煩わしい。惣次郎はぐっと片手で胸を押さえつけ、低い声で言った。
「慧。これはお前のためでもあるのですよ」
「どの口が言うか!」
 慧は激昂した。普段顔を覆っている冷静の仮面がすでに剥がれていた。惣次郎はドアを開けた。どっと冷たい風が2人の冷たい体を襲った。
「ぼくのためだと? よくもそんなことが言えるな。すべてあなたの……いや、あなたたちの欺瞞が招いたことじゃあないか。ぼくは構わなかった。貢さんだってそれでもいいと言っていた。それを拒否したのはあなたたちだ。ぼくのためだとあなたたちは言ったが、それは違う。あなたたちが追放されないために、ぼくを押し込めたのだ。ぼくのことを知られれば人々からだけじゃない、仲間からも追放されてしまうと知っていたからだ。なにを今更、仲間を捨てたあなたたちがそんなことを恐れるというのだ。おかげでぼくは涼介にすら、打ち明けられない……。なにも知らない清風しか分かってもらえない。いいや、清風すら、本当のことを知ればぼくのことを拒絶するだろう。ぼくは、汚らわしい、厭らしい、下等で、下劣な獣の……」
「お前はそう言うが、かつてはそれが当たり前だったのだ」遮るように言った惣次郎の顔からはいつもの笑顔が掻き消えていた。声もあの物腰の柔らかい、包み込むようなものとは打って変わって、低く冷たく、しかし自信のない強がりにも似た響きであった。「それに、言い出せないのはすべてお前の勇気が足りないためだろう。それまで私たちのせいにされる道理はない」
「ほら、そうだ。またそうやってあなたは逃げる。ぼくだって自分の勇気がないことも卑怯なことも嫌というほど知っている! しかし、きっかけを作ったのはあなたたちだ。今回の涼介のことだって、あなたがちゃんと監督していてやらなかったのがそもそもの原因じゃあないか。ワンダラーの細胞が暴走することくらい、あなたなら簡単に予測がついたはずだ!」
 惣次郎は押し黙った。息子から言葉をぶつけられて、返す言葉もなかったのである。その通りなのだ。今回の問題は以前から恐れていたことではあった。しかし、彼が行方を晦ませて以来その動向を見守ることもできなくなり、またその細胞もごくごく微量でこのまま静かに眠ったままでいるだろうと楽観視しすぎていた。仮面ライダーに変身することでそれが目覚めるとは露ほども思わなかったのだ。
「その上、あなたは涼介に話さなかった。原因がワンダラーの細胞にあること。どうしてそれを彼が持っているのか。そして、どうして仮面ライダーに変身できるのか。それを話さなかった。絶好の機会だというのに」
「今はまだ、そのときではない……」
 彼は歯切れが悪かった。先刻彼自身を罵った言葉と同じものが息子の口から飛び出して、彼を打ちのめした。なんたる皮肉だろうか。自身が自身に向けた軽蔑の刃を同じものを息子に向けられる。しかし、自分は自分を庇い、慰めることをして無理やりにでももう1人の自分の口を塞ぐこともできるが、息子は容赦などしない。それどころか急所を的確に貫き、抉り出してくる。掲げた刃を収めることなどない。本当のことを言っても、なにもかもは言い訳に過ぎない。ああ、分かっている。分かっているとも。すべて。自分自身がだれよりも。お前に言われるまでもない。
 慧の目から光が消えていく。侮蔑。息子が実の父に投げた視線はそれであった。
「ヤーデ」
 父は阿諛を含んだ響きで息子をそう呼んだ。しかし、息子は冷たい拒絶の眼差しを向けたまま応えなかった。
「お前のためなのだ」
「もういい。もう、あなたとは話をしたくはない」
 踵を返し、乱暴にドアを開け放った。父親は侘しげに息子の大きくなった背中を見つめていた。
「慧」
「なんです」苛立たしげに、他人行儀に言った。
「少しは行動を慎みなさい。いくらなんでも、あれはやりすぎです」
 ふん、と彼は鼻で笑った。小さき父に一瞥をくれてやって、嫣然と微笑んだ。
「あなたが仰ったじゃありませんか。手段を選ぶな。必ず守れ。命に代えても。それがおまえの使命だと。まあ、あなたがたに言われずとも、ぼくは涼介を守る。守るために生きているんです。ねえ、〝お父さん〟」

* * * *

 あの人も慧と同じだ。涼介は思った。あの人も、なにかを抱えている。打ち明けたくても、打ち明けられないでいる。それはきっと、この自分を守るためだ。そして、きっと彼ら自身を守るためなのだ。しかしそのために、あの人たちはもっと辛い思いをしている。ああ、どうして言ってくれないのだろう。そのせいで、悲しいけれど、少しずつあの人たちへの信頼が揺らぎつつある。
 あの家族は隠していることが多すぎる。かつて、幼かった彼はあの家族に親しみ、疑うことすら知らなかった。疑うはずもない。当たり前の存在だったのだから。しかし、この2年間離れ、そして久闊を叙してからはどうしてか彼らから漂う不自然さが殊更に肌で感じられるようになったのだ。家族であったはずなのに、遠く感じるどころか、まったく異質なものとして思われるようにもなった。彼らが揺らぐことのない存在から、一個人へと涼介の見方が変わったせいだろうか。もしかしたら以前よりやや客観的に他人を見るようになってきたのかもしれない。だが、それがたまらなく苦しくもあった。信用していたいのに信用できない。もはや唯一の家族といっていい存在を疑うのは悲しかった。身を切るように辛いことであった。しかし、もう無知には戻れないのだ。慧を信用できないわけではない。慧は信じている。慧は信じさせてくれる。けれど、今まで尊敬していた父を疑うことは慧に対して申し訳ないし、昔の自分を裏切るようなものでもあったから。
 またしても部屋にノックの音が響いた。涼介は思考の淵から戻ると、はいと返事をした。今度入ってきたのは紙袋を持った慧である。
「やあ、改めてあけましておめでとう」
「ああ、うん。おめでとう」
 なにやら妙にうすら寒いほどの笑顔の彼に少したじろぐ。こういう顔のときはなにかしら嫌なことがあったりした場合が多い。慧は涼介が感じたことをその表情から読み取ったのか、多少自然な笑顔に修正した。
「これ、差し入れ。病院で食べるのはどうかなと思ったけれど主治医の息子の権限で食べても大丈夫でしょう」
「なんだよそれ」
 袋から紙箱を取り出して、涼介に手渡した。包装紙にはさる有名な老舗和菓子店の名前が印刷されている。高校時代、涼介が1度でいいから食べてみたいと思いながら横目で通り過ぎていた店のものだ。曇っていた表情がぱっと晴れて、涼介はやや頬を紅潮させながら慧を見上げた。
「これ、駅前の店のやつだよな」
「そうだよ。それに、ほら、開けてみて」
 涼介はドキドキしながら、丁寧に、神経質に包装を剥がした。そっと蓋を取ると、鮮やかな色合いの上生菓子が顔を見せた。紅白の梅の花を模した練切や干支を象った薯蕷饅頭、金箔の乗った羊羹など華やかな和菓子たちが並んでいる。それらを見て、涼介の夜色の瞳にきらきらと星が宿った。
「すげえ……! ありがとう、慧!」
「良かった、喜んでもらえて」
 慧もにっこり笑った。本当に、慧は涼介の好きなものをよく心得ている。彼がなにに興味をもっているのか逐一確認しているわけではないが、彼を見ているだけで大抵のことは察することができるのである。慧曰く、涼介は分かりやすい性格だからとのことだが、実際は慧の涼介に関する監察能力が他人のそれより数十倍も優れているからである。涼介以外に関心を持たない、逆に言うと涼介には多大な関心を寄せているということ。それは彼に対する友情か、それとも忠義か、実のところ慧にも分かっていない。分かっていなくても構わない。大切なのは自分が涼介を大事にしたいという気持ちだけなのだから。その気持ちさえあれば、感情にラベルを貼り、分類する必要はないのだから。少なくとも、慧にとっては。
「食べるのもったいないよなぁ。でも日持ちしないしなあ。食わなきゃなあ」
 嬉しそうに和菓子を吟味している涼介を、慧は優しく見守り、微笑んでいた。鬱蒼とした気分も彼の笑顔を見れば和らいでしまう。それでも、心の中で怒りの炎はいまだ燻っていた。いいや、彼の平和そうな顔と、そして境遇を思うとその怒りは燎原の火のごとく広がって慧の身も心も焼き尽くすのである。
「涼介」
 ういろうを頬張った彼に、慧はぽつりと言った。涼介は食べるのをやめて、慧の顔を見た。慧は長い睫毛を伏せて、小さく呟いた。
「ごめんね」
 涼介は和菓子の箱を置いて、彼に言った。
「いつか、そのうちに」
「……うん」
 慧の伸ばした手を握り返した。冷たい温もりのほかに、彼の微かな悲鳴を感じ取った。言葉を交わさずとも分かり合える。けれど、いつか言葉でもって伝えてほしい。だから言ったのだ。「いつか、そのうちに」

* * * *

 冬の風が吹き荒んでいた。時折悲鳴に似た響きが蒼空を駆け巡る。しかし、それ以外音はない。静かな昼下がり。冷たい風に弄られ続けた体を動かすのは億劫だ。寒さには極端に弱く、体温はすぐに下がってしまい、体の動きはすぐに鈍くなる。それでも、冬は嫌いではない。なぜと言われたら、なぜだろうか。それは、親友の生まれた季節だからだろうか。息子も、友の生まれた季節だから夏が好きだと答える。そんなものでいいのかもしれない。
 携帯電話を開いたり、閉じたり。この作業を先ほどから何度も繰り返している。凍えた指先はだんだんと動かなくなってきた。無意味な逡巡。
「なにを迷ってるんだい」
 叱責が突然後頭部に吹っかけられた。振り向くと、院内へ続く階段の前に小さな女の影。妻の光江であった。惣次郎は照れたような笑いをして携帯電話を閉じた。光江はふんと鼻を鳴らすと、惣次郎の隣にどっかりと座った。小柄な体躯に似合わず、彼女の堂々とした態度のせいか挙動にいちいち大げさな形容をつけてしまう。
 惣次郎はふわっと息をついた。吐いた息は冷たいので、そのまま空気に溶け込んでいった。光江はやや大仰に肩をすぼめて見せた。
「まったく、寒いねえ。いやんなっちまうよ」
「そうですねえ」
 光江はぶっきらぼうにカイロを投げてよこした。一瞬それがなにか判断がつかなかった惣次郎はぎょっとして身をよじったが、カイロと分かると恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます」
「ったく、なんだってこんな凍えちまいそうなとこにいやがんのさ。ほかにもっとあるだろうに」
「はは、すみません」
 光江は彼を睨みながら深緑のマフラーに小さな顔を半分沈めた。この女性にはいつも勝てない。彼が恐妻家というわけではない。彼はれっきとした愛妻家である。彼女は惣次郎と違ってごちゃごちゃしたものをずばり切り捨ててしまうが、それが大抵彼の拵えたへんてこな理屈よりずっと理に適っている。彼は、彼女のそんな性質を尊敬しているのだ。彼女のその性格に幼いころからずっと惹かれていたのだ。歯に衣着せぬ彼女の言葉は時に彼や息子の慧を容赦なく傷つけへし折るが、それをちゃんとフォローする優しさも当然併せ持っている。だからこそ、惣次郎は彼女になにを言われてもちょっぴりへこむ程度で嫌いになることはない。
「で、どうしたんだい。いやに辛気臭い顔してんじゃないかい」
「ええ。実は、慧に怒られてしまいまして」
「はあ」と感嘆を漏らした。「あの子もずいぶん生意気になったもんだ」
「少し貴女に似てきました」
 じろりと睨まれ、彼は誤魔化すように笑った。実際は光江よりも惣次郎自身に似てきたのだが。息子は彼の心を映す鏡となって、彼の前に立ちふさがる。逃げ道などないぞと言わんばかりに。しかし、彼自身も息子の鏡のような存在である。この父子の思考は似通っているので、なにを考えているか分からないようでよく分かるのだ。しかし、まあ、言いたいことをずばりずばりと容赦なく言うあたりは、やはり光江似かもしれない。
 光江は仰山な息を吐いた。彼女の吐息もまた、透明のまま冬の空に消えた。
「で、アンタはこれからどうしようってんだい。あたしとしちゃ、あんまりあの子に負担掛けたくないんだがねえ。もともとあたしたちの問題なんだ」
「ですが、あの子はおそらく戦いをやめないと思います。あの子自身は戦うことを望んではいませんが、義務感、使命感に突き動かされて無理やりにでも戦火に身を投じることでしょう」
「貢に顔向けできないねえ」
「ええ。まったくです。僕たちは貢を守ることも、あの子を守ることもできませんでした。本当に不甲斐ない……」
「なーに沈んでるんだい。こうなっちまったことは仕方ないんだ。アンタも慧もいっつも過ぎたことにばっか拘ってなんにもしちゃいないじゃないか。それより、今後どうするかを考えたほうが貢のためにもなるんじゃないかい」
 卑屈になりかけた彼の丸まった腰を彼女が叩いた。空に反響する程度には大きな鈍い音がした。乱暴だが、彼女なりの激励である。これが彼には1番効く。放っておいたらすぐにいじいじ考え出す彼の思考を一撃で吹き飛ばしてくれるのだ。惣次郎はじわじわ痺れる腰を労わりつつ、頷いた。瞳はじんわり涙で潤んでいる。かなり痛かったのだ。
「そう、ですね」
「ほら、顔をあげな。アンタはどうするんだい」
 光江に促され、惣次郎は手にした携帯電話に再度目を落とした。これから自分は、まただれかを巻き込もうとしている。せっかく安逸な生活を手に入れ、幸福な時間を過ごしているであろう人を、戦いの最中に引きずり込もうとしている。そのことを思うと、迷いが生じるのも自然なことだ。光江に言われても、こればかりは即断するのは難しい。
「本当に、いいのでしょうか」
「ジェダ」光江は彼をそう呼んだ。「あたしたちが罪深いのはよく分かっているよ。本当は人間を巻き込んじゃいけないんだ。それに、アガサたちを呼び戻すことは、せっかく隔離したウルスラのベルトを敵の目に晒すことにもなりかねない。アンタはそれを承知でアガサに協力してもらいたいんだろう。あたしも、アンタと同じなのさ。口じゃ偉そうに言うけど本当は迷ってる。アガサは気の弱い優しい子だからねえ。こんな危険なことに引きずり込みたくはないんだよ。でも、あの子、言ってたじゃないか。なにかあったら必ず力になるって。まあ、本当は甘えちゃいけないんだろうが、聞くだけ聞いてみてもいいんじゃないかい。アンタが嫌ならあたしがやるよ。あたしのほうがあの子とは仲が良かったんだから」
 光江は優しい声で言った。惣次郎は彼女の顔を見て、首を振る。迷っていても仕方がない。やるだけやってみよう。
 惣次郎は携帯電話を開いた。長年かけることのなかった電話番号。かけることがないようにと願っていた電話番号。
 ああ、なんて自分勝手なのだろう。それでも、やるしかないのだ。少しでも、彼の助けとなるためにも。
 コール音が耳朶を打つ。永遠に続くのではないかと感じる単調な音。途切れずに続けばいい。このまま繋がらなければいい。祈りつつ、惣次郎は蒼穹を仰いだ。
 ふっと音が途切れる。電話から聞こえてくるのは懐かしい女。虫の羽音のように弱弱しい、掠れるような声。惣次郎はからからに乾いた舌を無理やり動かして、ようやっと声を発した。
「お久しぶりです、アガサ。ええ。僕です。ジェダイトです。……」
 光江が霜焼け気味の手を伸ばし、彼の冷たい手にそっと重ねた。彼は彼女の小さく冷たい手をぎゅっと握りしめた。